ナポレオン・ボナパルト【Napoléon Bonaparte】
ナポレオン・ボナパルトの概要
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ナポレオン・ボナパルト【Napoléon Bonaparte】(1769年8月15日-1821年5月5日)は革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(在位1804年-1814年、1815年)。フランス革命後のフランスをまとめあげ、フランスに帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを侵略。席巻するも敗北してその後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。
ナポレオン・ボナパルトの略歴
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- 1769年8月15日:コルシカ島アジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ(仏語名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に生まれる。出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシカ語: Nabulione Buonaparte)。ブオナパルテ家はイタリアロンバルディア州に起源を持つ古い地主であった。父は判事をしていたがコルシカ独立闘争の折にはパオリの副官を務め、後にフランス側に転向して貴族の資格を得た。
- 幼年期に、父と兄ジュゼッペ(仏名ジョゼフ)とともに渡仏。子供時代は読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒。おとなしい性格だったといわれる。修道院付属学校に入るが、すぐに辞めて国費で1779年にブリエンヌ陸軍幼年学校に入学、1784年にパリの陸軍士官学校に入学した。
- 1785年:父を亡くす。また、砲兵士官に任官。
- 1789年:バスティーユ牢獄陥落の報に接してフランス革命に参加、ジャコバン派を支持する小冊子を出して逮捕される。
- 1792年:コルシカに帰郷してアジャクシオの国民衛兵隊中佐となる。それによりフランス王党派と繋がりのあるパオリと亀裂が生じ、パオリの腹心でナポレオンの縁戚関係にあるボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、一家で追放に近い逃避行によってマルセイユに移住。
- 1793年:フランス軍大尉(直後に少佐)として勤務していた際に、イギリス艦隊に占拠されたトゥーロン攻略作戦に砲兵専門家の才を買われ参加。司令官のデュゴミエ将軍によって自身が立てた作戦が採用され、戦闘でも功績を挙げて准将・旅団長となる。
- 1794年:革命政府ではロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはその弟のオーギュスタンと繋がりがあったために投獄される。
- 1795年:釈放後に総裁政府の総裁ポール・バラスによって登用され、パリに於ける王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)を、首都の市街地で大砲を撃つとの大胆な戦法であっさり鎮圧したことで師団長となり、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとる。
- 1796年:デジレ・クラリーとの婚約を反故にし、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。
- 1796年:バラスによってイタリア方面軍の司令官に抜擢される。
- フランス革命戦争において、総裁政府はドイツ側から2軍、イタリア側から1軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図、ナポレオンはイタリア側からの軍を任された。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対し、ナポレオン軍は連戦連勝、ミラノから1797年4月にウィーンに迫り、10月に城下の盟を誓わせた(カンポ・フォルミオの和約)。
- 11月、フランスへの帰国途中、1798年に行われるラシュタット会議に儀礼的に参加。
- 12月、パリへと帰還したナポレオンはフランスの新たな若き英雄となっていた。
- オーストリアが脱落した事で第1次対仏大同盟は崩壊したが、強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図、エジプト遠征を総裁政府に進言してこれを認められる。
- 1798年7月:ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオンが率いる軍はエジプトに孤立。
- 1898年12月:第2次対仏大同盟が結成される。
- 1799年:オーストリアにイタリアを奪還され、民衆の間では総裁政府を糾弾する声が高くなる。ナポレオンは、第1次アブキールの戦いに勝った後でエジプトを脱出しフランスへ帰還。民衆はナポレオンを、エジプトを平定した英雄として歓呼と共に迎えた。
- 1799年11月:ナポレオンはブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立。自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握る。
- 政権の座に着いたナポレオンは連合国に対して講和を申し出るが、これは拒絶される。それに対しナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに進出。
- 1800年6月:マレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利。
- 1800年:フランス銀行を設立し経済の安定をはかる。
- 1801年2月:フランスの別働軍がオーストリア軍を撃破したため、オーストリアは和約に応じ、ライン川の左端をフランスに割譲、北イタリアなどをフランスの保護国とした。
- 1801年:ローマ教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和。
- 1802年3月:アミアンの和約でイギリスと一時的に講和。
- 1802年:レジオン・ドヌール勲章を創設。
- 1804年:「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定。
- 1804年3月:フランス王族アンギャン公の処刑。これにより全ヨーロッパに反ナポレオン対反キリストの情勢を生み出し、ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から帝制への道を突き進む。
- 1804年8月2日:終身統領(終身執政)となり、独裁権をさらに強める。
- 1804年12月2日:即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就く(フランス第一帝政)。
- 1805年:アミアンの和約はイギリスによって破棄され、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させる。イギリスはこれに対し、オーストリア・ロシアなどを引き込んで第3次対仏大同盟を結成。
- 1805年10月:ウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領。
- オーストリアを救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍がオーストリアのフランツ1世の軍と合流し、即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地でナポレオン軍と激突。ナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、オーストリアはプレスブルク条約でフランスに屈服した。この戦いは3人の皇帝が1つの戦場に会したことから三帝会戦と呼ばれる。
- 1805年10月:一方で、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終る。
- ヨーロッパ中央を制圧したナポレオンは、兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就ける。ライン同盟を発足させてこれを保護国化することで、ドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことで長い歴史を持つ神聖ローマ帝国は事実上解体。
- ドイツに対してナポレオンが強い影響力を持つ事に不快感を感じたプロイセンはナポレオンと対立するようになる。
- 1806年:プロイセンは、イギリス・ロシア・スウェーデンを集めて第4次対仏大同盟を組織。10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでナポレオンはプロイセン軍を破ってベルリンを占領。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は逃亡。
- 1806年11月:イギリスへの対抗策としてベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、戦勝したロシア・プロイセンなども参加させて大陸とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とそうとしたが、これは大陸諸国とフランス民衆の大きな不満を買うことになる。
- 1807年:ナポレオンはポーランドへ向かう。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会う。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産。
- 1807年:プロイセンを救援に来たロシア軍をアイラウの戦い・フリートラントの戦いで撃破。講和条約のティルジット条約でプロイセンの領土を大幅に削って小国にし、ポーランドに誕生させたワルシャワ公国、弟ジェロームを王位に就けて誕生させたヴェストファーレン王国をともにフランスの傀儡国家とした。
- スウェーデンに対してもフランス元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる。
- 1808年:スペインのブルボン朝の内紛に乗じて兄ジョゼフを王位につける。しかしこれに対するスペインの反発は激しく、半島戦争(1808年-1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。
- 1809年:ナポレオンのスペインでの苦戦にオーストリアが起ち、イギリスとオーストリアとともに第5次対仏大同盟を結成。ナポレオンはオーストリアにアスペルン・エスリンクの戦いで敗れるが、ヴァグラムの戦いで辛くも勝利。シェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第5次対仏大同盟は消滅。
- この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないとの理由から離別、オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものとされる。
- 1811年:王子ナポレオン2世が誕生、乳児をローマ王の地位に就けた。この過程で教皇領は解体され、ローマ教皇ピウス7世は幽閉される。
- ナポレオンの勢力はイギリスとスウェーデンを除くヨーロッパを制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。
- 大陸封鎖令を出した事でイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥る。
- 1810年:ロシアが封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開、ナポレオンは封鎖令の継続を求めたがロシアはこれを拒否。
- 1812年:ナポレオンはロシア遠征を決行(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。
- フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入したが、兵站を軽視したナポレオン軍は、ロシア軍の徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落。モスクワをも大火で焦土とされたことで、ナポレオン軍は総退却となる。無事に帰還してこられたものはわずか5千とされる。
- この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第6次対仏大同盟を結成。この同盟にはベルナドットのスウェーデンも参加していた。ロシア遠征で数十万の兵を失った後、強制的に徴兵された新米で訓練不足の若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。
- 1813年:ナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦。メッテルニヒとの和平交渉が不調に終った後、秋のライプツィヒの戦いでは同盟軍に包囲されて大敗、フランスへ逃げ帰った。
- 1814年:情勢はさらに悪化し、フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ブリュッヒャー両将軍の軍勢25万、北西にはベルナドット将軍の16万、南方ではウェルズリー将軍の10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日には帝国の首都パリが陥落。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結の後、エルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。
- ナポレオンは、ローマ王だったナポレオン2世を後継者に希望したが同盟国側に認められず、またベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末ブルボン家が後継に選ばれる(王政復古)。
- ナポレオン失脚後にウィーン会議が開かれ、欧州をどのようにするかが話し合われるも各国の利害が絡んで会議は進まず。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
- 1815年:ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みる。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、百日天下は終る(実際は95日間)。
- ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降。イギリス政府はアーサー・ウェルズリー(ウェリントン)将軍の提案を採用し、ナポレオンをセントヘレナ島に幽閉。
- ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活。その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であったとされる。
- ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられたとされる。
- 1821年:死去。
- 1840年:遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第2帝政を生み出すことになる。
ナポレオン・ボナパルトの残した名言
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- 不可能という言葉はフランス的ではない(余の辞書に不可能の文字はない/不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する)【Impossible, n'est pas français.】。
- 時代とは人間の偉大な芸術である【Le temps est le grand art de l'homme.】。
- 天才とは、彼らの世紀を照らして光輝くべく運命づけられた流星である【Les hommes de génie sont des méteorés destinés à brûler pour éclairer leur siècle.】。
- 偉大な人間は必要もなく残酷になることは決してない【Les grands hommes ne sont jamais cruels sans nécéssité.】。
- 戦争とは、私の手中にある無政府状態への解毒剤であった【La guerre a été dans mes mains l'antidote de l'anarchie.】。
- 兵士諸君、ピラミッドの頂から4千年の歴史が諸君を見つめている【Soldats, songez que du haut de ces pyramides, quarante siècles vous contemplent.】。
- いかなる生涯においても、栄光はその最後にしかない。
- お前がいつか出会う災いは、おまえがおろそかにしたある時間の報いだ。
- それにしてもわが生涯は何と言うロマンか!
- 一度戦いを決意したならば、その決意を持続しなければならない。
- フランス人ほど統治しやすい国民はいない。
- ルソーは存在しなかった方がフランスの安寧のためには良かった。フランス革命の下地を拵えたのはあの男である。後世の人々はこの地上で安息を得るには、ルソーもボナパルトも出現しないでほしかったと思うに違いない。
- 偉大さが輝きを放つのは、回想においてか、想像においてのみである。
- 苦しむには、死ぬことよりもっと勇気がいる。
- 愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。
- 偶然は、凡庸な精神の持主にとっては常に1つの神秘であるが、優れた者にとっては1つの現実である。
- 君の軍隊が数において劣勢ならば、敵に兵力を終結させる暇を与えず、移動中の敵を攻撃するがよい。
- 国民はその意思に反してこれを救わねばならない。
- 国民を甘やかしては優れた統治者とはいえない。
- 最大の危機は勝利の瞬間にある。
- 最良の兵隊とは、闘う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である。
- 作戦計画には2種類ある。良いものと悪いものとである。ただし、時としてはよい作戦計画も偶然の事情によって失敗し、時としては悪い作戦計画も運命の気まぐれによって成功する。
- 作戦計画を立てることは誰にでもできる。しかし、戦争をすることのできる者は少い。
- 子供の将来はその母の努力によって定まる。
- 指揮の統一は、戦争において最も重要なものである。2つの軍隊が同じ舞台に登場してはならない。
- 私に6万の兵が加われば、16万に相当する。
- 私は100万の銃剣より、3枚の敵意ある新聞紙を恐れる。
- 私はもはや、何人にも服従することはできない。命令の味を知ってしまったからだ。
- 私はギリシャのポリスで行われたことをフランスで実現したかった。
- 私は何か問題を考えたい時、心の引出しを1つ開ける。問題が解決するとその引出しを閉め、また次には別のを開ける。眠りたい時には全部の引出しを閉める。
- 私は確かに野心家だった。しかし、それは今までにないほど偉大で気高い野心だったのである。
- 私は国民の自由を第一に考えてきた。事実、帝政は一種の共和制なのである。
- 私は重大な状況において、ほんの些細なことが最も大きな出来事を常に決定するのを見た。
- 私は常に仕事をし、よくよく瞑想をする。私がいつもすべてのことに応えすべてのことに立ち向かおうと待ち構えているように見えるのは、何かを企てる前に、永い間瞑想をし、起こるかもしれないことを予見しているからだ。他の人々にとっては思いがけないと見える場合にも、私のいうべきことなすべきことを突如としてひそかに私に啓示してくれるのは、天才ではなく熟慮であり、瞑想なのだ。
- 宗教なき社会は、羅針盤のない船のようなものである。
- 宗教は、貧しい者が金持ちを殺害する事を思いとどまらせる(宗教というのは庶民を黙らせるのにちょうど良い目くらましだ)。
- 醜い女は我慢できるが、高慢な女は辛抱できない。
- 将軍とは軍隊の頭であり、一切である。ガリアを征服したのはローマの軍隊ではなく、カエサルである。ローマの入り口で共和国を震え上がらせていたのはカルタゴの軍隊ではなく、ハンニバルである。インダス河のほとりへ赴いたのはマケドニアの軍隊ではなく、アレキサンダー大王である。
- 状況?何が状況だ。俺が状況をつくるのだ。
- 真の征服、いかなる悔恨も伴わぬ征服とは、無知の征服だけであります。
- 人はその制服どおりの人間になる。
- 人間はあらゆるものを発明することが出来る。ただし幸福になる術を除いては。
- 数の優勢な部隊の方にこそ勝利は保証されている。それゆえ戦術は、闘おうと思う地点に赴いた時どうすれば敵軍よりも数において勝ることができるか、ということを考えるに在る。
- 生きたいと思わねばならない。そして死ぬことを知らねばならない。
- 生きている兵士のほうが、死んだ皇帝よりずっと価値がある。
- 戦いは最後の5分間にある。
- 戦争においては、いたずらに多くの人間がいても何もならない。一人の人間こそすべてである。
- 戦争に勝つために必要なのは判断力であり、イデオロギーではない。
- 戦争会議を重ねすぎると最終的に最悪の策が採られる。これは世の常である。
- 荘厳さから滑稽さまでは、わずか一歩にすぎない。
- 非常によく統治された国家にあっては、1つの支配的な宗教があるほうが良い。しかしその場合、聖職者は民衆に奉仕する存在でなければならない。
- 不撓不屈の精神が私を次の目標へと導いていく。その目標が達せられない限り、私は無敵であろう。しかし、それが不要となった時、1匹の虫でさえ私を打倒するには充分である。
- 平凡人が規則の枠内でしか動けないというのはそれで良い。有能の士はどんな足枷をはめられていようとも飛躍する。
- 平和とは、いろいろな国の真の利害――すべての国にとって名誉ある利害――に基礎をおいた、よくよく熟慮された1つのシステムの結果でなければならない。降伏でもありえず、威嚇の結果でもありえない。
- 夜の間はできるだけ私の寝室に入らないでくれ。良い知らせが来た時は決して起こさないでくれ。ただし、凶報の際は必ず起こすように。なぜならそのときは一刻の猶予もできないに決まっているから。
- 約束を守る最上の手段は、決して約束をしないことである。
- 友情とは名ばかりのものだ。私はどんな人間も愛さない。兄弟すら愛さない。兄のジョセフだけは少し愛している。ただし、それも習慣上からである。
- 友人をもつということは幸福なことなのだ。
- 翌日の戦闘に備えて新鮮な部隊を残しておく将軍は、ほぼ常に敗れる。
- 恋愛を前にした時のただ1つの勇気は逃げることである。
- フランス...軍隊...ジョセフィーヌ...(最期の言葉)。
ナポレオン・ボナパルトの逸話
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- 1日に3時間しか眠らなかったとの話が有名だが、ナポレオンは昼寝をしっかりと取っていた。
- ジャック=ルイ・ダヴィッドによるアルプス越えの絵画では白馬に乗っている姿が描かれているが、実際に乗っていたのはロバだったとされる。
- 友人に宛てて書いた手紙があまりの悪筆で、戦場の地図と間違えられた。
- ナポレオンは身長が低かったとされるが、バーゼル大病院のリュグリの研究によると身長167cmと推定され(当時のフランス人の平均身長は兵役検査の資料から160cm以下とされる)、実は低くないとの説が有力。
- ナポレオンは妻のジョゼフィーヌに、毎晩本を読んでもらうのが日課だった。
- シャンパンを入れた風呂に入っていた。
- 2回自殺未遂をしたことがあった。
- 音痴だったといわれる。
- 暗殺されるのを恐れ、自分で髭を剃っていた。
- 一定時間その場所にいられないほど落ち着きが無かった。
- 読書好きで有名だったが、飽きっぽい性格のため読破した本は殆ど無かったとされる。ただし、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だけは例外で、生涯に7度も読んでいる。
- ナポレオンは胃下垂だった。また、痔に悩まされていたともいわれる。
- 当時としては珍しいギター弾きであった。
- ナポレオンは、左手にコインを持ち右手のフライパンで焼けたクレープをうまくひっくり返せたら1年がうまくいくとの「クレープ占い」に凝っていた。1812年2月2日にクレープ占いに挑戦して5枚目に失敗。その年、彼はモスクワ遠征に失敗して退却する際「余の5枚目のクレープだ」と呟いたそうである。
- エルバ島から脱出してパリに戻る道中で、目玉焼きを好んで食べたとされる。
- 数学好きとして知られるナポレオンは、側近に数学者を置いて数学の勉強を続けた。
- ナポレオンの帽子は戦闘中に打抜かれたことがあり、背がもう少し高ければ、戦死していたかも知れない。
- ナポレオンは鶏肉を好み、特に若鶏のマレンゴ風が好物だった。これはマレンゴ会戦の勝利後、シェフが現地にて即席で創作した料理とされる。
- ブレザーなどの袖についているボタンは、ナポレオンがロシア遠征の際に兵士達が袖で鼻水を拭えないようにするために付けたのが始りとされる。
- 陸軍士官学校での卒業試験の成績は58人中42位であったが、通常の在籍期間が4年前後であるところをわずか11か月で必要な課程を修了した事を考えれば、むしろ非常に優秀な成績であったと言える。実際、11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。
- 当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。
- ゲーテは、「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。
- ナポレオンを人民の英雄と期待し『ボナパルト』と言う題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、皇帝就任に失望してナポレオンへのメッセージを捨て、曲名も『英雄』に変更したとされる。ただし、ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更したとの説もある。
- フランスの凱旋門は、アウステルリッツの戦いでの勝利を祝して1806年に建築が命じられた。
- セントヘレナ島での生活の中で、ナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり、ナポレオン伝説の形成に大きく寄与したとされる。
- 死亡に関しては、ヒ素中毒による暗殺説が語られる。ナポレオンが臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べ、またナポレオンの遺体をフランス本国に返還するために掘り返した際、その身体が死の直後と変わりなかった事が理由となっている。ただし、死の直後に発表された胃癌あるいは胃潰瘍の説も有力であり、現在もその死因についての議論は決着していない。
- ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。また、アメリカのルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。
- ナポレオンが戦場で馬に乗っていた所、偶然四つ葉のクローバーを見つけ、体を伏せた瞬間に銃弾がすれ違い命を救われたとのエピソードも残っている。
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