第13番札所 金龍山浅草寺

広告

広告

金龍山浅草寺の基本情報

最終更新
2008-12-28T00:00:00+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b13_snsouzi.html#basic
正式名称と通称
金龍山 浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ) 通称:浅草観音(聖観世音菩薩
本尊と宗派、開基と開基年
聖観世音 / 聖観音宗(総本山)  / 土師中知推古天皇36(628)年
真言
おん あろりきゃ そわか
御詠歌
ふかきとが いまよりのちは よもあらじ つみあさくさへ まゐるみなれば
所在地と電話番号
〒111-0032:東京都台東区浅草2-3-1(03-3842-0181)
位置
緯度:35度42分52.585秒(35.714607)、経度:139度47分47.947秒(139.796652)
納経所
夏:6時〜17時、冬:6時半〜17時
前札所と次札所
前札所:第12番札所 慈恩寺 / 次札所:第14番札所 弘明寺
交通と駐車場
最寄駅は、東武・営団浅草駅。徒歩5分程度。
駐車場:無し
拝観料
-

金龍山浅草寺のその他情報

最終更新
2009-03-22T12:28:33+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b13_snsouzi.html#other

歴史と謂れ

浅草寺は、東京都内最古の寺院といわれている。縁起によると、推古天皇36(628)年3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(現・隅田川)を漁撈中、一躰の観音像が網にかかったといわれる。郷司の土師中知はこれを拝し、聖観世音菩薩であることを知り深く帰依し、その後出家して自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げたといわれる。これが浅草寺の始りとされている。観音像は、高さ1寸8分(約5.5cm)の金色の像であったといわれている。大化元(645)年、勝海上人がこの地を訪れた際、観音堂を建立し、夢告により本尊を秘仏と定め、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。なお、桧前氏と土師氏は奈良時代の氏族で、東大寺大仏開眼供養式の楯伏舞に共に関係している。

『武蔵野地名考』にはこの地、観世音の霊場にて、おのずから聚落となり、荒蕪をひらくること他より先だちたれば、浅草の名はおこりたりとあり、広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は、浅草寺を中心として参拝の信徒が増すにつれ発展した。平安時代初期の天安元(857)年には、延暦寺の僧・慈覚大師円仁が来山し、前立(秘仏の代りに拝むための像)の観音像を謹刻した。これにより、浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は、天慶5(942)年に、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがあり、この頃に寺観が整ったものと思われている。

浅草寺が文献に現われるのは、『吾妻鏡』からで、源頼朝が深く帰依し、八幡宮の造営に浅草から大工を召したことが記されている。鎌倉時代には将軍の篤い帰依を受け、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。天文14(1545)年の『東国紀行』には、角田川もみえわたる森のようなる木末あり、とへば関東順礼観音浅草といふ所となむとあり、当時既に札所として知られていたことがわかる。

江戸時代の初めには、天海大僧正の進言で徳川家康によって幕府の祈願所とされ、五百石が寄せられ、当時既に十二か坊を擁する大寺であったが、堂塔の威容さらに整い坂東一の巨藍となった。『坂東霊場記』は、天正年中より堂社僧院湧くが如く起ると記し、『丙辰紀行』は男女の群集すること京の清水より多く見へけると、当時の繁栄のさまを綴っている。しかし、寛永8(1631)年および同19(1642)年に焼失。慶安2(1649)年の将軍家光の代に、観音堂および五重塔、仁王門、雷門が再建された。江戸時代後半には、境内に「仲見世」の前身である商店や芝居小屋が設けられ、大道芸人なども集まり、江戸文化の中心として大きく繁栄した。『江戸繁昌記』は、人の賽詣すること未だ嘗て一刻の間も絶えざるなりと記している。

明治時代初期には境内が公園地に指定され、明治18(1885)年には表参道両側の仲見世が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変った。大正6(1917)年からは、日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始り、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では、浅草区はその大半が焼失する被害に遭うが、浅草寺境内は一部建築物が延焼するだけの被害にとどまる。しかし、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で、旧国宝の観音堂と五重塔などが焼失。もともとは天台宗に属していたが戦後に独立し、聖観音宗の総本山となった。現在も浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人の参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。

堂塔

浅草寺の雷門雷門は、有名な浅草寺の表参道入口の門である。切妻造の八脚門で、向って右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式には「風雷神門」という。ともに鬼面蓬髪、風袋をかついで天空をかける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神のお馴染みの姿である。また、門の裏側には、向って右に金龍、左に天龍の龍神像が祀られ、これら四神は浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。天慶5(942)年、平公雅によって創建された。慶応元(1865)年に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが、昭和35年(1960年)に約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。これは、実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものであり、門内には松下電器産業寄贈の大提灯がある。年に一度の三社祭と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

浅草寺の宝蔵門宝蔵門は、雷門をくぐり仲見世を抜けた先にある入母屋造の二重門。現在の門は、昭和39(1964)年に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に仁王像を安置することから、かつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため、平成19(2007)年に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦が全国ではじめて採用された。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。

浅草寺の本堂浅草寺の本堂本堂は、本尊の観音像を祀るため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2(1649)年の再建で、近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていたが、昭和20(1945)年の東京大空襲で焼失。現在の堂は、昭和33(1958)年に再建された鉄筋コンクリート造のものである。外陣には川端龍子筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には、本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には前立観音像が安置される。毎年12月13日に開扉法要が行われるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合もあるが、その際も拝することができるのは前立像のみで、秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像を安置する。

浅草寺の五重塔浅草寺の五重塔。再建前の塔は、慶安元(1648)年建立で、本堂と同様昭和20(1945)年の東京大空襲で焼失した。現在の塔は、本堂の西側に場所を移し、昭和48(1973)年に再建されたもので、鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。現在、その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれている。

二天門は、重要文化財に指定されており、本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4(1618)年に徳川秀忠が寄進したもので、太平洋戦争後も焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮への門として建てられたものである(東照宮は寛永19:1642年に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天増長天)は、上野の寛永寺墓地にある厳有院霊廟から移されたものである。

浅草神社は、重要文化財に指定されており、本堂の東側に位置する。浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治時代の神仏分離以降は、浅草寺と別法人になっている。

伝法院は、宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園があり、一般には公開されていない。

浅草寺の六角堂六角堂は、東京都指定の有形文化財。

浅草寺の影向堂影向堂(ようごうどう)は、もと本堂南東にあったものを、平成6年に円仁の生誕1200年を記念して現在地に再建された、影向衆を祀るお堂。堂内には、中央に聖観世音菩薩、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊8体が位置する。お堂の上の棟飾りには、火伏せのまじないとされる金箔押しの鴟尾がある。

浅草寺の橋本薬師堂当初は観音堂の北にあり、北薬師と呼ばれていた。慶安2(1649)年、将軍家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったため、家光自身が「橋本薬師堂」と名付けた。平成6年に、現在の場所に移転した。桁行三間(約5.35m)、梁間三間(約5.10m)、屋根は入母屋造の瓦葺。外部はかなり改変され、全面にあった三間一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内にある堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。

浅草寺の鐘楼浅草寺の時の鐘。江戸時代当初、時を知らせる鐘は江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大に伴い、日本橋本石町にも設置され、さらに浅草寺や寛永寺など9か所でも時を知らせた。鐘の大きさは、高さ約2.12メートル、直径約1.52メートル。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5(1692)年8月に五代将軍綱吉の命により改鋳したとされる。

浅草寺の弁天堂

行事

その他の情報

東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所であり、江戸三十三箇所の1番札所でもある。浅草寺が坂東三十三箇所の第一番札所でないことを不満に思った江戸っ子は、「江戸自慢十三番がこれくらい」との川柳を残している。

観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。

法華経は、昭和26(1951)年国宝に指定されている。平安時代頃の装飾経で、別名「浅草寺経」。金銀泥で装飾した装飾経の代表作で、『法華経』8巻に『無量義経』『観普賢経』が附属した全10巻が現存し、表紙・軸・巻き紐まで含めて制作当初のままに残されている。東京国立博物館に寄託。

浅草寺の仲見世

浅草寺の手水所

浅草寺の一言不動尊

浅草寺の境内にある浅草神社

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

浅草寺の境内

広告

Copyright (C) 2008-2009 七鍵 key@do.ai 初版:2008年12月28日 最終更新:2009年03月22日