広告
広告
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b12_zionzi.html#basic
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b12_zionzi.html#other
天長元(824)年に、慈覚大師(円仁)の開山によって創建されたと伝えられている。大師は関東巡錫の際、日光山の頂きから、仏法弘通の地を示し給えと祈念して李の実を虚空に投じた。その後大師がこの地を訪れた際、池のほとりに李の木があったため、有縁の地と感じ、杉の霊木をもって千手観音の尊像を刻み一宇を建立して安置したと伝えられている。慈恩寺の寺名は、風景が似ているとの理由から、慈覚大師が入唐求法の折に遊学した長安の大慈恩寺にちなんで名付けられたとされる。
天正19(1591)年には、徳川家康から寺領百石を寄進されている。江戸時代に入り、寛文10(1670)年に東照神君の霊牌供養料二十八石を受けたほか、岩槻城主からも帰依を得た。また、文政年間(1818〜30年)には、日光輪王寺法親王歴代の参籠所とされた。『坂東霊場記』には、「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」と紹介され、盛時には十三万五千坪の境内と、塔中六十六か坊を有する大寺であった――元禄7(1694)年の古図――とされる。
昭和17(1942)年12月に、当時所在不明だった玄奘三蔵法師の霊骨を、日本軍(高森部隊)が南京中華門外で、土木作業中に偶然発見した。霊骨は南京政府に届けられ、その後盛大に奉安式が行なわれた。分骨は日本仏教会に贈られ、開創の由来によってこの寺に奉安されることとなり、昭和28(1953)年5月に十三重の花崗岩の石組みによる霊骨塔「玄奘塔」が落慶した。
本堂は、十三間四面で、文政10(1827)年に焼失したものを、天保14(1843)年、深乗上人の代に再建された。堂内には、格天上の花鳥図や鳳凰の図、天人彫りの欄間などがある。本尊は、慈覚大師作のものが焼失したため、寛永年間に天海僧正が比叡山より招来したものが納められている。
玄奘塔は、西遊記で名高い三蔵法師の霊骨塔である。本堂のある境内から、約300メートル東南に離れた場所に位置する。高さ約15メートルの十三重塔。石碑には、「大唐玄奘三蔵納骨塔」と刻まれている。遺骨は印度式直径6.3センチメートルの水晶の壺に納められ、これをさらに合金佐波利の壺に入れ、塔心の上部を掘ってその中心に安置し、周囲には慈恩寺境内で発掘された一字一石の写経の玉石が込められている。
南蛮鉄灯篭は、天正17(1589)年5月に、岩附城主北条氏房の家臣、伊達与兵衛房実によって寄進されたもので、さいたま市の指定文化財である。
ご本尊は、夫婦の円満を祈る観音さまとして知られている。
山号は華林山で、院号は最上院。
慈恩寺には、岩槻城主太田資正の天文18(1549)年の判物以下、518点の古文書が伝えられている。内容は、寺領寄進状、慈恩寺法度等の幕府や岩槻藩の保護・統制に関するもの、寺院の組織・経営に関するものなど。これらの文書は、昭和35年4月1日に、岩槻市の文化財に指定されている。
広告