徳川家康
徳川家康の概要
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徳川家康(とくがわ いえやす:天文11年12月26日[1543年1月31日] - 元和2年4月17日[1616年6月1日])は、日本の戦国大名で江戸幕府の初代征夷大将軍。江戸幕府の開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康はその始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
徳川家康の略歴
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- 天文11(1542)年12月26日:寅の刻(午前4時)に、三河国の土豪・松平氏第8代当主・松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれる。幼名は竹千代(たけちよ)。
- 6歳の時、広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元の人質として駿河国府中へ送られるが、その途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られる。
- 今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から元の字の偏諱を受け次郎三郎元信と名乗り、義元の姪である関口親永の娘・(通称築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。
- 永禄3(1560)年5月:桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立を果たす。
- 永禄5(1562)年:義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改める。
- 西三河を中心に起こった三河一向一揆の鎮圧に成功。
- 永禄9(1566)年:東三河・奥三河(三河北部)をこの年までに平定、三河国を統一。また、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓。
- 永禄11(1568)年:今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。同年末からは今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。
- 遠江で越年したまま軍を退かず、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲る。
- 元亀元(1570)年:本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し、浜松城を築く。
- 永禄11(1568)年:信長が足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣。
- 足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成。このとき家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めたが、家康はこれを黙殺。朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助ける。
- 永禄11(1569)年:武田信玄が、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻。徳川勢の抵抗と北条氏康の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となる。
- 元亀3(1572)年10月3日:武田信玄が西上を開始。まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。
- 元亀3(1572)年10月13日:2万2000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うため、家康は天竜川を渡って目附にまで進出。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還(一言坂の戦い)。
- 元亀3(1572)年12月19日:浜松の北方を固める遠江の要衝、二俣城が陥落。
- 元亀3(1572)年12月22日:援将である佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、家康は断固として反対、徳川軍8000人、織田軍3000人で武田軍3万人に挑む(結果、徳川・織田連合軍は大惨敗:三方ヶ原の戦い)。
- 天正3(1575)年5月:1万5000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められる。これに対して城将・奥平信昌は善戦し、援軍の到来まで耐え抜く。
- 天正3(1575)年5月21日:後詰決戦で、織田・徳川連合軍が武田軍に大勝(長篠の戦い)。
- 天正7(1579)年:信長から、正室・築山殿と長男・松平信康に武田勝頼への内通疑惑がかけられ、家康は正室・嫡男の両名を殺害。
- 天正10(1582)年6月2日:本能寺の変。家康は服部半蔵の進言により伊賀越えを決行、加太越を経て伊勢の国から海路三河にかろうじて戻る(神君伊賀越え)。
- 天正12(1584)年3月:柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り台頭してきた羽柴秀吉を快く思わない信長の次男・織田信雄は家康と手を結び、徳川・織田連合軍は尾張小牧において羽柴軍と対峙(羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万)。
- 天正12(1584)年4月5日:秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙、秀吉は家康の武略を恐れて動かず、戦線は膠着状態に陥る。
- 天正12(1584)年4月7日:秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助らを討ち取る(小牧・長久手の戦い)。
- 秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻める。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力は無く、11月11日、秀吉と単独講和。信雄と秀吉の講和で戦の大義名分を失った家康は撤退を余儀なくされる。
- 天正12(1584)年12月12日:秀吉と講和、次男の於義丸を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送る。
- 天正14(1586)年4月23日:臣従要求を拒み続ける家康に対し、秀吉は当時正室がいなかった家康に妹の朝日姫を正室として差し出す。
- 天正14(1586)年5月14日:家康と朝日姫は結婚。ただし、家康はなおも臣従せず。
- 天正14(1586)年10月18日:秀吉が生母の大政所も人質として岡崎城に送ってきたため、家康は秀吉への臣従を決意。
- 天正14(1586)年10月27日:大坂城で秀吉と謁見し、秀吉に臣従。
- 天正14(1586)年11月5日:正三位に叙任される。同年12月4日、居城を浜松城から駿府城へ移す。
- 天正15(1587)年8月8日:従二位、権大納言に叙任される。
- 秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7か国に移封される。
- 慶長5(1600)年3月:家康は越後の堀秀治、出羽の最上義光らより、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという報せを受ける。
- 慶長5(1600)年4月1日:伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣。景勝の重臣・直江兼続が挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言。
- 慶長5(1600)年6月2日:直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開く。
- 慶長5(1600)年6月16日:家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征。
- 慶長5(1600)年7月:石田三成は毛利輝元を総大将として擁立し、大谷吉継、増田長盛、長束正家らと共に挙兵。家康の弾劾状を諸大名に対して公布。
- 慶長5(1600)年9月15日:午前8時、美濃関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられる(関ヶ原の戦い)。
- 家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、実質上の天下人として君臨。
- 慶長8(1603)年2月12日:朝廷の後陽成天皇から参議の勧修寺光豊が勅使として伏見城に派遣され、六種八通の宣旨が下され、征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命される。3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べる(朝廷から正式な将軍宣下が行なわれたのは3月27日であり、この日をもって江戸幕府が開かれたこととなる)。
- 慶長10(1605)年4月16日:家康は三男の徳川秀忠に譲位を行い、徳川氏による将軍職の世襲を確実なものとする。
- 慶長12(1607)年:駿府城に移り、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとる(大御所政治)。
- 慶長19(1614)年4月:豊臣氏は家康の勧めでに方広寺を再建、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なう。これに対し、家康は方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつける。その後、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に豊臣方に宣戦布告。
- 慶長19年(1614)年11月15日:二条城を発して大坂攻めの途につき、20万からなる大軍で大坂城を完全包囲。難攻不落として知られる大坂城に対し力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻める局地戦を行う(大阪冬の陣)。
- 慶長19年(1614)年12月19日:淀殿が家康に和睦を申し出、家康もそれを了承。和議の条件は、大坂城の惣堀を埋め立てるというものであったが、家康は大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立てさせ、慶長20年1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。
- 豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとしたが、家康はそれを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀の為と称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始。
- 慶長20年5月8日:豊臣秀頼と淀殿、そしてその側近らは自害し、豊臣氏は滅亡(大阪夏の陣)。
- 元和元(1615)年:禁中並公家諸法度を制定し、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにする。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令を制定。
- 元和2(1616)年:4月17日:巳の刻(午前10時ごろ)に駿府城において死去、享年74(73歳没)。
徳川家康の残した名言
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- 人の一生は、重荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず(『遺訓』より)。
- 不自由を常と思えば不足なし(『遺訓』より)。
- 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし(『遺訓』より)。
- 堪忍は無事長久の基(『遺訓』より)。
- 怒を敵と思え(『遺訓』より)。
- 勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る(『遺訓』より)。
- 己を責めて、人を責むるな(『遺訓』より)。
- 及ばざるは過ぎたるに勝れり(『遺訓』より)。
- 滅びる原因は自らの内にある。
- 戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が。
- 大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。
- 人生に大切なことは、五文字で言えば「上を見るな」。七文字で言えば「身のほどを知れ」。
- いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。
徳川家康の逸話
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- 家康の身長は推定156〜160cmと言われている。晩年は肥満傾向にあり、胴回りは120cmと推測されている。
- 家康は、健康にとても気を使っていたため長生きをしたといわれている。もともと凝り性だった家康は食事のつりあい、消化のよさなどを考えて台所に献立を通達していたと言われている。また生薬にも精通し、その知識は専門家が舌を巻くほどのもので、一説には自分で調合していたとも、孫の家光の大病を治したとも言われるほどである。
- 南蛮胴や南蛮時計など、新しい物好きだったといわれる。
- 家康は、剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していたとされる。
- 家康という人物を示す仇名として「狸親父」というものがある。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。
- 初夢で見ると縁起がいいものとされる、富士山・鷹・茄子は、家康の好きなものである。天下を獲った男の愛する品と言うのが、一富士二鷹三茄子の由来。
- 「徳川の宝はなにか」との秀吉からの問いに対し、「五百騎の三河武士である」と返したといわれる。
- 死因に鯛の天ぷらによる食中毒説があるが、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日(いずれも旧暦)とされ、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌か梅毒と考えられている。
- 江戸城内において天ぷらを料理する事は禁止されており、家康の死因にちなむとする説もあるが、実際には大奥の侍女が天ぷらの料理中に火事を出しかけたがために禁止されたとの説が事実とされる。
- 家康は信長以上に朝廷をないがしろにしたとされ、実際彼は朝廷を事実上支配下においていた。慶長11年には幕府の推挙無しに諸大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に否定している。また、天皇家および公家衆全体での石高を小大名並みの石高とし経済的に困窮させた。
- 辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」(『東照宮御実記』にこの二首が伝わる)を詠んだ。
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