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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b14_gumyouzi.html#basic
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寺伝によると、養老5(721)年にインドの善無畏三蔵法師により開設されたといわれる。来朝し密教の機縁を求めて諸国を巡った際、七つの石を加持して陀羅尼を書き、当地の山に納めて結界としたのが始りと伝えられている。また、天平9(737)年に行基がこの地を訪れた際、空中に白蓮が乱れ飛んで山上の古木の間に落ちるのを見た。そこで、山に登ったところ白狐と烏に乗った神(稲荷明神と熊野権現)が現れ、善無畏三蔵の事跡について語ったといわれる。行基は一刀三礼のうちに鉈彫りの十一面観音を刻んで一宇を建立、これが弘明寺の開創といわれる。さらに、弘仁年間(810〜824年)には、筑波山にいた弘法大師がはるかに瑞雲がたなびくのを見て当地を巡錫、善無畏と行基の跡を継いで伽藍を建立し、一千座の護摩を修したといわれている。『坂東霊場記』には、長暦年問(1037〜40年)に武相の地に疫病が流行した際、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったとある。この霊験を詠んだのが弘明寺の御詠歌とされる。『風土記稿』には、「今の堂は明和二年改め造りし所なり、其時古き堂の柱を除き去りしに、ほぞの内に寛徳元年申年と記しありしを、村民庄左衛門まさしく見たり」とある。
『吾妻鏡』によれば、鎌倉時代には源家累代の祈願所とされ、頼朝が行基を尊崇していたこともあり、この寺を坂東札所の中に入れたと考えられている。弘明寺はかつて広い寺有地を有していたが、廃仏毀釈による公有地化で北の寺有地の大半を横浜市に譲渡されたこと(後に弘明寺公園として整備されている)や、湘南電鉄(現京浜急行電鉄)が寺の北部分に弘明寺駅を開業したことなどにより、寺有地は過去の約2割ほどとなった。寺の前から鎌倉街道に至る門前町が古くより開け、弘明寺から鎌倉街道まではアーケード街となり、現在に至っている。
本堂は、寛徳元(1044)年に、光慧上人が建立した。当時の古材「チョーナ彫り」が床板として使われている。
観音堂の左手には、厄除大師と弘法大師が納められたと伝える聖天尊をまつるお堂がある。
庫裡の前にある四脚門は楓関門と呼ばれ、横浜市内最古の門で応永18(1411)年の建立。
仁王門は、江戸時代に建てられたといわれている。仁王門前の文政元年の百番供養塔。
梵鐘は、横浜市指定の有形文化財(工芸:平成9年11月4日指定)。江戸神田に住む西村和泉守藤原政平という鋳物師の作で、寛政10(1798)年に阿闍梨秀光が願主となり再々造したものといわれる。
本尊の十一面観音立像は、顔から足の先まで丸ノミでシマ目のノミの跡をはっきり表わした鉈彫りの典型的な作例として有名なもので、平安時代の作と伝えられ国の重要文化財に指定されている。像高180センチメートル、欅の一木造りと考えられてきたが、昭和39年の虫害防止のための調査で「ハルニレ」の木であることが判明。
本尊の安置されている内陣の両側の壁には、金胎の曼荼羅が掲げられている。
弘明寺には秘佛との繁殖を奨励するさまざまな仏像があり、「秘佛拝観」の役務を提供し、仏像美術の特殊な造形美術をその所蔵文物として参詣客の要望により適宜公開している。
竹材を用いた竹一管造りの「竹の観音」。
京浜急行電鉄株式会社が2001年に奉納した身代地蔵。
三蔵法師が結界の際に用いたといわれる七つ石。
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