鎌倉時代
鎌倉時代
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- 2007-04-22T15:10:00+09:00
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- 1185(文治1)年11月:後白河方法が頼朝に義経追捕の命を出す。頼朝が諸国に守護・地頭の設置と兵糧米の徴収を朝廷に認めさせる。
- 1187年:エジプトがエルサレム王国を滅ぼす。
- 1187(文治3)年4月:源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼る。
- 1189年:第三回十字軍の出発(〜1192年)。
- 1189(文治5)年:藤原泰衡が源義経を攻め、義経・弁慶らは衣川で没。奥州征伐を経て、頼朝が奥州を平定。
- 1190(建久1)年:源頼朝が初めて京に上る。頼朝は権大納言・右大将に任ぜられるがやがて官を辞して鎌倉に戻る。
- 1192(建久3)年:源頼朝が征夷大将軍任命される。
- 1193(建久4)年:頼朝が富士の裾野で巻狩りを行う。頼朝が弟の範頼を疑い伊豆で殺害。
- 1198年:ドイツ騎士団が作られる。
- 1198(建久9)年:土御門天皇即位。
- 1199(正治1)年:頼朝が没し子の頼家が家督を継ぐが、母政子が頼家の親裁を停止。
- 1200(正治2)年:梶原景時の排斥。
- 1202年:第四回十字軍の出発(〜1204年)。
- 1203(建仁3)年:運慶・快慶が東大寺南大門の金剛力士像を作る。
- 1203(建仁3)年:比企能員が源頼家とともに北条氏打倒を図り敗れる(比企能員の変)。
- 1203(建仁3)年:北条時政らが頼家を伊豆の修禅寺に幽閉、十二歳の源実朝を将軍に就任させる。
- 1204(元久1)年:源頼家が伊豆修禅寺で殺害される。
- 1205(元久2)年:畠山重忠の排斥。北条時政が後妻牧の方と共に平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗、隠退(牧氏事件)。北条義時が執権となる。
- 1206年:チンギス・ハンが蒙古を統一し即位。
- 1210(承元4)年:順徳天皇即位。
- 1211年:チンギス・ハンが華北に侵入。
- 1213年:少年十字軍が結成される。
- 1213(建保1)年:和田義盛が子・甥が陰謀の疑いで捕らえられたのをきっかけに鎌倉で挙兵、戦死(和田合戦)。
- 1213(建保1)年:源実朝の『金槐和歌集』が完成。
- 1215年:イギリスのジョン王がマグナ・カルタを承認。
- 1216年:第五回十字軍の出発(〜1221年)。
- 1216(建保4)年:源実朝が陳和卿に造船を命じ、宋に渡ることを計画。
- 1218(建保6)年:源実朝が右大臣になる。
- 1219年:チンギス・ハンが西アジア遠征。
- 1219(承久1)年:実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺される。九条頼経が京都から迎えられ将軍になる。
- 1221(承久3)年:仲恭天皇即位。後堀河天皇即位。
- 1221(承久3)年:承久の乱が起こり、幕府軍が後鳥羽上皇方の軍を破る。
- 1221(承久3)年:京都に六波羅探題の設置。大田文の作成。
- 1221(承久3)年:後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に配流、土御門上皇を土佐に遷す。
- 1224年:オゴタイ汗国が興る。
- 1224(貞応3)年:北条泰時が執権になる。連署制を始める。親鸞が『教行信証』を作る。
- 1225(貞応4)年:評定衆の設置。
- 1227年:蒙古が西夏を滅ぼす。チンギス・ハン没。
- 1227(安貞1)年:道元が宋から帰り曹洞宗を広める。
- 1228年:第六回十字軍の出発(〜1229年)。
- 1232(貞永1)年:北条泰時が関東御成敗式目(貞永式目)を制定。四条天皇即位。
- 1234年:蒙古が金を滅ぼす。
- 1236年:蒙古が東ヨーロッパに侵入。
- 1241年:ハンザ同盟が成立。
- 1242(仁治3)年:後嵯峨天皇即位。
- 1243年:キプチャク汗国が興る。
- 1243(寛元1)年:鎌倉大仏が完成。
- 1244(寛元2)年:越前に大仏寺(後の永平寺)ができ道元が招かれる。
- 1246(寛元4)年:名越光時・前将軍九条頼経が執権時頼を倒そうとして失敗。
- 1246(寛元4)年:後深草天皇即位。
- 1247(宝治1)年:北条時頼が三浦泰村とその一族を滅ぼす(宝治合戦)。
- 1248年:第七回十字軍の出発(〜1254年)。
- 1249(建長1)年:幕府が御家人の訴訟を専門に扱う引付衆の設置。
- 1252(建長4)年:宗尊親王が将軍に就任(皇族将軍の始め)。
- 1253(建長5)年:日蓮が鎌倉で法華経の説法を始める。
- 1253(建長5)年:北条時頼が建長寺を建立。
- 1254年:ドイツでライン同盟が成立。
- 1258年:蒙古がバグダッドを占領、イル汗国ができる。
- 1259年:高麗が蒙古に降伏。
- 1259(正元1)年:亀山天皇即位。
- 1260年:フビライが第三代ハンとなる。
- 1260(文応1)年:日蓮が『立正安国論』を表す。
- 1261年:東ローマ帝国が復興。
- 1265年:イギリス議会ができる。
- 1267(文永4)年:高麗の使者が蒙古王の書を持ち来日。
- 1268(文永5)年:蒙古の使者が国書を持ち大宰府を訪れる。幕府が西国の御家人に蒙古襲来への備えをさせる。
- 1268(文永5)年:北条時宗が執権になる。
- 1268(文永5)年:日蓮が時宗に書を送り、外寇を警告。
- 1270年:第八回十字軍の出発(最後の十字軍)。
- 1271年:フビライが国号を元とする。マルコ・ポーロが東方旅行に出発(〜1295年)。
- 1271(文永8)年:幕府が日蓮を佐渡に流す。幕府は九州の御家人に一か月交代で沿岸防備することを命じる。
- 1274(文永11)年:日蓮が身延山久遠寺を開く。
- 1274(文永11)年:元軍が襲来。対馬・壱岐を経て博多湾に上陸したが暴風のため退く(文永の役)。
- 1274(文永11)年:後宇多天皇即位。
- 1275年:マルコ・ポーロがフビライに謁見。
- 1275(建治1)年:北条時宗が元の使者を滝の口で斬り、高麗襲撃を計画する。
- 1276(建治2)年:幕府が九州の御家人に命じて、博多湾沿岸などに石塁を築かせる。
- 1279年:元が南宋を滅ぼす。
- 1279(弘安2)年:宋の僧無学祖元が来日。
- 1279(弘安2)年:元の使者が来るが幕府は博多で斬る。
- 1281(弘安4)年:元軍が来襲、暴風雨のため退却(弘安の役)。幕府は再び高麗攻撃を計画。
- 1285(弘安8)年:北条貞時が安達泰盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。
- 1287(弘安10)年:伏見天皇即位。
- 1293(永仁1)年:幕府が鎮西探題を設置、北条兼時らを派遣。
- 1293(永仁1)年:執権貞時が平頼綱父子を攻め滅ぼす(平禅門の乱)。
- 1297(永仁5)年:御家人の所領回復策として幕府が徳政令を出す(永仁の徳政令)。
- 1298(永仁6)年:後伏見天皇即位。
- 1299年:オスマン・トルコが独立。マルコ・ポーロが『東方見聞録』を作成。
- 1301(正安3)年:幕府が大覚寺・持明院両統の迭立を確認。
- 1301(正安3)年:後二条天皇即位。
- 1302年:フランスで国会が開かれ三部会が成立。
- 1308(延慶1)年:花園天皇即位。
- 1310年:オゴタイ汗国が滅びる。
- 1317(文保1)年:持明院統・大覚寺統の皇位交代性が決まる(文保の和談)。
- 1318年:ダンテの『新曲』(ルネッサンスの始まり)。
- 1318(文保2)年:後醍醐天皇即位。
- 1321(元亨1)年:後醍醐天皇が院政をやめ天皇親政を行う。
- 1324(正中1)年:後醍醐天皇が幕府打倒の計画を立てるが発覚、土岐頼兼・多治見国長らは殺され、日野資朝・俊基らは鎌倉に送られる(正中の変)。
- 1326(嘉暦1)年:日野資朝は佐渡に配流、俊基は赦免。
- 1328年:フランスのカペー王朝が断絶、バロア王朝となる。モスクワ公国が独立。
- 1331年:大セルビア王国が興る。
- 1331(元徳1)年:光厳天皇即位(北朝)。
- 1331(元徳1)年5月:後醍醐天皇の幕府倒幕計画が密告され、日野俊基・文観らが捕らえられる。
- 1331(元徳1)年9月:後醍醐天皇が笹置山で捕まる(元弘の変)。楠木正成が赤坂城で挙兵。
- 1332(正慶1)年:幕府は後醍醐天皇を隠岐に、尊良親王を土佐に流し、日野資朝・俊基を殺す。護良親王は吉野、楠木正成は千早城で挙兵。
- 1333(正慶2)年:後醍醐天皇は隠岐を脱出、名和長年を頼る。足利尊氏が六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻め幕府が滅びる。後醍醐天皇が光厳天皇を廃し京都に帰る。記録書・雑訴決断所・武者所を設置。
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