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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b27_enpukuzi.html#basic
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『飯治山観世音縁起絵巻』によれば、神亀元(724)年、漁師の清六が十一面観世音菩薩を網ですくい上げたことが縁起とされる。春頃、銚子の浦が荒れて漁をすることができなくなり、5月頃になると、毎夜、海上に光が放たれるようになった。浦の人々が不思議に思っていたところ、ある夜、清六の夢に観音様が現れ、光が輝いている場所で牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよと告げた。そこで、翌朝沖に出ると、同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たため、二人で光輝いていた辺りに網を投じた。すると、御丈二尺余の十一面観音像が、瑪瑙石を左の脇にはさんで出現したといわれる。この時、天から降米の奇瑞があったといわれ、「飯沼」の地名はこれに由来するとも言われている。その後、清六と長蔵は出家し、それぞれ観清と音長と称して草庵を結んだ。二人は、観音像を安置して病人の病を癒したため、瘧除け法師(おこり除けの法師)と呼ばれたと伝えられる。
天平年間(729〜749年)には、行基菩薩がこの奇瑞を聞き、この地を訪れて厨子を作り奉納した。このおり、尊像がやや大きくて厨子に入らなかったが、行基が祈願すると、尊像は首をたれて自ら厨子に入ったといわれる。さらにその後、大同年間(806〜810年)には、弘法大師がこの尊像を拝し、台座や光背を作って開眼供養を行った。そして、下総国の守護千葉氏の系統である海上長者が、尊像と大師に帰依し、壮大な伽藍を建立したといわれている。
その後、海上氏一族の庇護によって、円福寺は発展していくことになる。海上氏は、千葉常胤の六男の胤頼がこの地にあって東氏を称し、その孫の胤方が海上の庄を与えられて海上氏を名乗ったことに端をなす。鎌倉時代のはじめには、坂東観音霊場の第27番札所に選定され、以来全国から巡礼が訪れるようになった。観音堂は、天正6(1578)年に海上氏によって八間四方のものが建立された。江戸時代には、朱印三十石、そして松平外記の保護の下、5600余坪の境内に、仁王門や鐘楼、薬師堂、多宝塔、大師堂(客殿)などが整備された。安永2(1773)年には、観音堂が十間四方の銅葺に改築されている。その後、太平洋戦争末期の昭和27年7月に、戦火のため本坊客殿を残して全てを焼失したが、昭和46年に観音堂が再建された。平成10年より伽藍の修改築工事が施されて寺容は一変し、多宝塔の再建のかわりに五重塔が建立されることになった。
五重塔は、木造の和様で、総高33メートル、銅葺、総桧造り、総工費15億円といわれる。初重には、薬師如来、百体の薬師三尊などが納められている。
『坂東霊場記』には、縁起のことを「石の如く罪重くして苦海に沈む衆生をもらさず浄土の岸へ救い上げんとの救世の悲願を示し玉ふ」と綴っている。
「ほととぎす銚子は国のとっぱづれ」とは、古帳庵が天保12(1841)年に詠んだ句であり、この句牌が本坊の庭にたっている。
かつては広大な境内を有していたが、現在では道路や商店などによって分断され、観音堂と本坊は200メートルほど離れている。
天保水滸伝で知られた、侠客銚子の五郎蔵の墓がここにあり、本坊には五郎蔵の息子の勝五郎と飯岡の助五郎寄進の銅壺がある。
寺宝も多く、天正墨書銘の戒躰函、建武・明徳・文安・天文年間書写の古文書、「竜神さま」と称される外国船首像などが保存されている。
鐃は、国の重要文化財。奈良国立博物館に寄託。奈良時代に造られたと考えられている。
梵鐘は、千葉県指定有形文化財(享徳11年在銘)。
『釈迦涅槃図 附 釈迦涅槃図由来書3巻』は、千葉県指定有形文化財。貞享年間刺繍。
本坊には、嘉永元(1847)年に建立された間口十二間、奥行き八間の瓦葺きの大師堂がある。こちらは、客殿、庫裡、内仏殿、涅槃殿(宝蔵庫)が連なっている。
大仏は、銚子近在の人たちの喜捨で正徳4(1714)年に鋳造されたもの。
昭和49年、犬吠崎の景勝地に満願寺の創建が発願され、昭和56年に伽藍が建立落慶、飯沼観音本尊うつしの十一観世音を奉安した。円福寺からは4.3km、銚電「犬吠」より徒歩3分。
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