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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b18_chuuzenzi.html#basic
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寺伝によれば、784(延暦3)年に日光山の開祖である勝道上人により、二荒山神社の神宮寺として男体山登拝口近くに建立されたという。勝道上人は、天平勝宝6(754)年に二十歳で出家、男体山の山中に観音の浄土があると信じ27歳の天平神護2(766)年に日光の地に四本龍寺を建てた。神護景雲元(767)年、男体山の登頂に挑戦、中腹から眼下に中禅寺湖を発見するが山頂を極めることはできなかった。湖畔に草庵を建て天応元(781)年に再度挑むが失敗。延暦元(782)年の三度目の挑戦で、前人未踏の男体山の頂上を道珍・勝尊などの弟子らと共に極めたとされる。延暦3(784)年の春、小舟で上人が中禅寺湖を周遊した折、湖上に千手観音を感得、桂の巨木を選んでその姿を立木のまま刻んだのが現在の本尊である立木千手観世音菩薩といわれる。
康治元(1141)年には藤原敦光が『中禅寺私記』を著し、正和4(1315)年は仁澄により中禅寺の大造営が行なわれた。また、日光山発祥の地ということで、江戸時代には幕府の保護を受けて隆盛する。その後、明治5(1872)年には神仏分離により輪王寺別院となり、山内の女人牛馬禁制が解禁された。また、明治35(1902)年の大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建された。そのとき、本尊は少しの損傷もなく3日後に湖上に浮かび上がったと言われている。昭和44(1969)年には勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設された。
本堂は立木観音堂とも呼ばれる。
波之利大黒天を祀る御堂。勝道上人が日光山を開いた時、中禅寺湖の波の上に現れた大黒天が祀られている。「波の上を走る」が「安産」を連想させ、安産の御利益があるとされる。また、「波に乗る」「波の上にとどまる」が「足止め」と解され、出征者や家出人の帰還、恋人や配偶者の浮気防止の御利益があると云われる。波之利大黒天は同じく輪王寺別院の宝増寺や、足尾界隈の大黒橋(栃木県道250号中宮祠足尾線の渡良瀬川橋梁)袂にも祀られている、日光由緒の大黒天である。
五大堂は、堂内に不動明王を中心として降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王からなる五大明王像が安置されている。五大堂の天井画「瑞祥龍」は堅山南風画伯の筆、格天井の「日光花づくし」の絵は院展同人二十四人の筆である。
愛染堂が本堂前に建ち、愛染明王像を安置。映画『愛染かつら』のロケ地として有名になり、縁結びにご利益があるとして信仰を集めている。
中禅寺の鐘楼は諸願成就の梵鐘といわれ、一つ撞いては父母祖先有縁無縁供養のため、二つ撞いては延命福寿のため、三つ以上は願の数々
と言い伝えられている。ただし、有料。
中禅寺湖畔から見える男体山。
木造千手観音立像は、国の重要文化財(1950年8月29日指定)。像高約5m。勝道上人が延暦年間に彫刻したとの伝承があるが、作風・技法等から見て実際の製作年代は平安時代後期と推定されている。カツラ材の一木彫で、42本の手などは別材を寄せて造られている。明治35(1902)年9月28日から9月29日にかけての暴風雨により起きた男体山の山津波により、本尊の千手観音像が中禅寺湖に流されたが、3日後奇跡的に浮かび上がり現在の中禅寺湖東岸に安置された。これにより、苦難や災事を乗り越える力を与えてくれるとの信仰を集めるようになった。本尊の周囲には、源頼朝が奥州平定の折に寄進したとされる四天王を安置している。
世界遺産に登録された日光山輪王寺の別院であり、坂東三十三観音霊場18番であると同時に、下野七福神(大黒天)でもある。
中禅寺湖は、海抜1269mの高地にあり、それまでに馬返し、いろは坂、華厳の滝などを通る。当霊場は女人禁制であったため、女性はいろは坂の途中にある清滝寺を女人堂として、札を納めて本尊を遥拝した。
中禅寺湖周辺は高湿度であり、そのため建物全体に厚さ2mmの赤漆を塗って湿気を防止している。
宝珠地蔵は、両手を前に合せ、その上に宝珠を抱き持つ姿、江戸時代初期の作と伝えられる。商売繁盛、金銭融通のお地蔵様として信仰されている。
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