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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b16_mizusawadera.html#basic
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創建年代については不詳だが、飛鳥時代上野国の国司高光の開基により創建されたと伝えられる。『縁起』には推古天皇の朝に当り、上野の国司高光中将菩提の所となさんがため、奏聞を経、御勅宣を以て高麗来朝の僧恵灌僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置し建立する寺なり
とある。推古天皇の御代(592〜629)、高野辺左大将家成は上野国に左遷され、勢多郡深須郷に蟄居した。家成には北の方との間に一男三女があり、嫡男の家定は中納言として上京、姫はそれぞれ淵名の姫・赤城の御前・伊香保姫として成長した。しかし、北の方が深須の地にて病死、家成は更科大夫宗行の娘を後妻に迎えて一女を授かった。その後、家成は宣旨を受けて単身上洛、残された継母は先妻の子供を妬んで殺そうと謀った。更科次郎兼光とともに赤城山麓で牧狩りを計画し、その折に姉二人を吾妻川に沈めて殺害、残る伊香保姫も川に沈めようとした時、赤城山から黒雲が起こり、風雨激しく雷鳴が轟いたので兼光らは驚き逃げ帰ったという。伊香保の郷に隠れ住んだ姫は都にこのことを報告、父はすでに没していたため兄の家定が下向して兼光たちを成敗したといわれる。後に伊香保姫は中将高光に嫁ぎ、慧灌僧正に請うて念持仏を祀ったという。
それ以来、歴代天皇の勅願寺として、また上野の国司の菩提所として栄えた。南北朝時代成立の『神道集』によれば、金堂・講堂・常行堂・潅頂堂・経蔵・鐘楼・多宝塔・全山併せて仏像百八十体を祀る巨刹と伝えられるが、火災により焼失、その都度再建を重ねた。江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられた。
本堂は、大永年間(1521〜27)に仮堂を造り、元禄から宝暦、天明の間(1688〜1789年)に改築を加えてきたもの。
六角二重塔(輪蔵)は、元禄年間(1688〜1704)の建立で群馬県指定文化財。内陣が回転するようになっており、三回まわして祈願する。各面には、寛永・宝永・正徳に造顕された等身大の地蔵菩薩を祀り、楼上には大日如来が安置されている。六道輪廻をあらわしている。
山門の仁王尊の背後には、五風十雨を願う風雷神が祀られている。
飯綱権現社
弘法大師堂
山号の五徳山は、水の五つの徳を称えたものといわれ、「常に己れの進路を求めてやまざるは水なり」「自ら活動して他を動かすは水なり」「盛害に逢ってその勢力を倍加するのは水なり」「自ら潔くして他の汚濁を洗い而して、清濁併せいるは水なり」「洋々として大海を充し、発しては雲となり雨と変じ凍っては玲瑞たる氷雪と化して、其の性を失わざるは水なり」を水の五徳という。
アンパンマン水子地蔵。詳細不明。
群馬県の有名温泉伊香保にも近く、札所というよりは観光地。伊香保温泉は、垂仁天皇の御代に開湯したと伝えられ、本尊千手観音の「方便の出湯」と呼ばれている。
山門の左手には、群馬生れの詩人・山村暮鳥の歌碑(また蜩のなく頃となった―かなかなかな―どこかにいい国があるんだ)が建っている。
石段の下には、「丹次の池」がある。丹次という子が継母にこの池に投げ込まれたが、水死の直前に乞食が現れて丹次を助け、継母は大いに驚いて悔悟し、やがて乞食は観世音の化身であることが分る、との伝説が残っている。
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