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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b06_hasedera2.html#basic
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この地より400メートルほど離れたところから清水が湧き、それが五色に変化する泉となっていたため、当時の里民は怖れて近づかなかった。神亀2(725)年、その地を訪れた行基が祈願すると、その泉の中から金の十一面観音像が現れ、行基の鉄鉢に飛び移ったといわれる。そこで行基は、末世度生の悲願をおこし、近くの楠を用いて三尺余の尊像を彫み、さきに感得した金像を胎内に納めてここに霊刹を設けたといわれている。更に、その後の大同2(807)年――一説には弘仁年間(810〜824年)――、弘法大師がこの地を訪れ、密宗の道場としたといわれている。
またもう一つの別の縁起も伝わっている。この地の信心深い領主飯山権太夫が旅僧に一夜の宿を布施したところ、そのお礼にと行基の作にして大和長谷寺の本尊と同木で造ったという観音像を権太夫に授けた。権太夫は早速観音堂を建立し落慶供養を営んだが、旅の僧は既に姿を消した後だった。これが、長谷寺の始りといわれているが、残っていた笈の中に五鈷杵のみがあったことから、権太夫に観音像を授けた僧は弘法大師だったと考えられている。
鎌倉時代には、四宗兼学の寺として栄え、鎌倉の覚園寺、金沢の称名寺と交流があったとされる。その後、嘉吉2年には本堂が炎上、その時再建されたのが現在の御堂である。
観音堂は、厚木市指定有形文化財で、嘉吉2年再建。桁行き五間(三十九尺)、梁間五間の正方形の銅板葺きの宝形堂(以前は茅葺)。正面中央間とその両脇間は両折桟唐戸、両隅間は連子窓で、側面も前一間を両折桟唐戸とし、四周には木口縁をめぐらし、擬宝珠高欄をまわしている。堂内は、前二間の外陣と後三間の内陣に別けられ、内陣には、寛文12(1672)年に大工西海氏によって造られた厨子(市重要文化財)が安置され、その中に本尊の木造十一面観世音菩薩が納められている。堂内には、役の行者の像もまつられている。
銅鐘は、神奈川県指定重要文化財。本堂の右手前にあり、当時の住僧が晨昏の例鳴を怠った際、その夜に鐘の行方が知れなくなり、のちに夢告によって地中より掘り出したとの伝説が残っており、「飯山の隠れ鐘」と呼ばれている。『坂東霊場記』には、「若し病者此の響を聞て至心に大悲者を持念すれば、病の愈ゆること流れに物を洗ふ如し」とあり、関東の地ではじめて清原国光が鋳造した名鐘(嘉吉2年:1442年)。当寺の鐘は、第二十五番筑波山、第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。境内には、「梵鐘の 余韻若葉の 峡渡る」の句碑が立てられている。
仁王門は、建久年間(1190〜99年)に源頼朝が秋田義景に命じて造営させたといわれる。三開一戸八脚門の寄棟造。「無門関」の扁額がある。仁王像は、宝永年間(1704〜11年)に飯山村の安西金左衛門が願主となり造立したものである。
当寺の鐘は、第二十五番大御堂、第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。
イヌマキは、厚木市指定天然記念物。かながわの名木100選の一つで、高さ17m、目通り2.74m、樹齢およそ400年。
境内及び参道入り口には、室町時代のものとみられる宝篋印塔や五輪塔、板碑、などが並んでいる。
『風土記稿』には、飯山寺と号し、長谷観音と唱ふ
とあり、「飯山寺」の呼称は観応元(1350)年の文書、「長谷観音」は嘉吉2(1442)年の鐘銘による。
縁結びの観世音として信仰者が多い。本尊開帳の日には、広場の見合いの松や夫婦松でお見合いして結婚した花嫁が、盛装して参詣する風習がいまでも残っている。また、この日に松の下で見合いをすると結ばれることが多いとされ、未婚の若い男女が着飾って参詣する姿も見られる。
縁起にもある本尊が出現したとされる泉は、「彼の泉の流れを服するに諸病愈ざる者なし」といわれている。
本堂裏には、文化7(1810)年「山上白山宮道、是より五丁」の石標があり、この寺に丹沢山塊一帯の修験の信仰があったことを示し、江戸時代までは白山修験の行場だったと考えられている。
境内には、坂東三十三霊場の観音石仏が順に置かれ、寺を一回りすると三十三観音にお参りができるようになっている。
新神奈川八景にも選定され、門前には飯山鉱泉の宿がある。
当地には飯山の七不思議が伝わっており、その一つ「観音堂の亀甲松」が本堂の前にあったが、近年枯れてしまった。
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