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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b07_koumyouzi.html#basic
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『光明寺縁起』によれば、大宝2(702)年に当地のすぐ前を流れる金目川が相模湾にそそぐ大磯町の小磯の浜で、貧しいが信心深い海女が汐を汲んでいた際、海中から観音像を得たという。また『坂東霊場記』では、海女の桶に木片が入り、両三度捨てたがまた入るので尊いものだと感じて家に持ち帰り礼拝していたところ、やがて一人の行脚の僧が来、これぞ聖徳太子御作の観音像であると告げて立ち去ったといわれる。そこで、海女は自分の家の奥にこの像を奉安し、更に篤く信仰したという。その後道儀上人が一宇を建立し、この観音像を安置したのが光明寺の始りという。この海女は光明寺の鎮守として祀られ、潮司大権現と号している。
その30年後の天平年間(729〜49年)、行基が1.7メートルの観音像を彫み、その胎内にが感得した像を納めたといわれている。この縁起により「お腹ごもりの観音(腹籠りの観音)」と呼ばれ、源頼朝夫人の政子も、実朝出産の際に祈願したといわれている(吾妻鏡)。これにより、頼朝をはじめ将軍家が相次いで帰依し、治承年間(1177〜80年)に堂塔伽藍を修築し、観音像や寺領を寄進して将軍代々の祈願所と定めた。当時の頼朝直筆の古文書が、現在も寺に保管されている。
足利尊氏の弟で鎌倉の宝戒寺第二世の惟賢和尚がこの寺に住した頃、全国から天台の修行僧が来て学び、一大学林を成した。その後、兵乱によって衰微したが、元和年間(1615〜23年)に至ってようやく復興したが、前を流れる金目川の洪水のために堂宇は大破したといわれる。慶安2(1649)年には、徳川家光より朱印状を受け、約2600坪の境内を構え、元禄10(1697)年には伽藍が復興されている。このときの住職、慶賀和尚は再建の意欲に燃え、自ら鍬をもって復興に努め、中興開山として仰がれている。しかし、明治時代には無住に等しい荒廃を示し一時衰退したが、昭和33年に大久保師が入山するにおよんで再び活気を取り戻し、近年諸堂が改築されて境内は一新された。
光明寺観音堂は、神奈川県指定の重要文化財。明応年間(1492〜1501年)の建立とされ、明応7(1498)年10月27日の棟札が残る平塚最古の建造物。間口七間、奥行八間で、建立以来一度の火災にもあっていない。近年修復されて建物そのものの色彩は鮮やかになっている。
光明寺銅鐘は、神奈川県指定の重要文化財。正平7(1352)年の在銘。
仁王門は、平塚市指定の重要文化財。
本堂内厨子(附:木造聖観音立像)は、国指定の重要文化財。明応7(1498)年の造営で、内部に本尊聖観音像を安置。前立の聖観音像の胎内銘から造営年代が判明した。前立聖観音像は参考資料として重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
木造聖観音立像は、平塚市指定の重要文化財。寄木造りで、頭部と体部は材質の異なる別木で、11〜12世紀のものと見られている。
「かなひの観音」と呼ばれ、これは坂東霊場記の縁起による家内に祀ったことによるとの、また所願みな叶うことによるとの説がある。
木造金剛力士立像は、神奈川県指定の重要文化財。
木造観音三十三応現身立像は、平塚市指定の重要文化財。教えを説く相手や場所により、33の姿に変化するといわれている。
光明寺古文書と光明寺縁起書は、平塚市指定の重要文化財。
この金目の観音菩薩も、政子の祈願以来「お腹帯」の授与をうける者がきわめて多い。
境内には「水琴窟」がある。水琴窟は、蹲からこぼれる僅かな水滴を、地下に埋めた甕に反響させて、地上に漏れる澄んだ音色を聴いて余情を静かに楽しむ仕掛である。当地の水琴窟は、江戸時代には造られていたとみられる。
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