第25番札所 筑波山大御堂

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筑波山大御堂の基本情報

最終更新
2008-12-28T00:00:00+09:00
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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b25_oomidou.html#basic
正式名称と通称
筑波山 大御堂(つくばさん おおみどう) 通称:大御堂観音(千手観世音菩薩
本尊と宗派、開基と開基年
千手観世音 / 真言宗豊山派  / 徳一法師延暦元(782)年
真言
おん ばざら たらま きりく
御詠歌
おほみどう かねはつくばの みねにたて かたゆふぐれに くにぞこひしき
所在地と電話番号
〒300-4352:茨城県つくば市筑波748(0298-66-0126)
位置
緯度:36度12分45.547秒(36.212652)、経度:140度5分57.908秒(140.099419)
納経所
夏:8時〜17時、冬:9時〜16時
前札所と次札所
前札所:第24番札所 楽法寺 / 次札所:第26番札所 清瀧寺
交通と駐車場
最寄駅は、JR土浦駅。
駐車場:普通車20台
拝観料
-

筑波山大御堂のその他情報

最終更新
2009-12-23T16:53:45+09:00
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歴史と謂れ

延暦元(782)年に、徳一上人の開山により創建されたといわれる。徳一法師が当山に登ると一人の天童が現れ、月輪洞と称する岩窟の場所を示した。法師が岩窟の近くに庵を結んでいると、麓の巫女が神憑りとなって山の故事を法師に語ったため、法師はこのことを都に奏上し、桓武天皇の勅によって創建されたと伝わる。その後、百三十歳となった法師は、岩窟で定に入ったという。弘仁年間(810〜24年)には空海が入山し、空海は自ら山嶺を極めて堂宇を建立し、知足院中禅寺と号した。この頃から、筑波山(筑波山神社)と神仏習合により信仰されたと伝わっている。

鎌倉時代には、常陸の守護八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、後に出家して名玄と名乗り、別当をつとめて子孫もそれを継いだ。応永5(1398)年には、落雷によって堂宇が焼失し、後に源海上人が再興した。江戸時代には、筑波が鬼門に当るところから祈願所と定められた。徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉上人がこの寺に住し、慶長19(1614)年には大阪城攻略の戦勝を祈願し、徳川家の恩寵を深くした。また、徳川家光は十八間四面の御堂と共に、三十塔、桜門、鐘楼などを建立し、多くの寺領を有するなど中禅寺はおおいに繁栄した。貞享3(1686)年、第十一世隆光上人の代には、寺領千五百石の寺格を有する大寺となり、十八支院、三百の住僧を数えたと伝わる。

しかし、明治初年の廃仏毀釈により、筑波神社は残されたが七堂伽藍は破壊されて廃寺となった。本堂は破却され、仁王門は筑波山神社の随神門になったという。その後、昭和5(1930)年に大御堂のみが再建された。本堂は、昭和13(1938)年7月3日の大豪雨で土砂濁流と共に埋没、昭和36(1961)年に民家を移して再建された。この山崩れの際、御堂が埋没したときも、千手観世音は奇跡的に土砂中より出現し、かすり傷も負わなかったといわれている。

堂塔

大御堂の本堂

大御堂の本堂

大御堂の鐘楼堂

行事

その他の情報

当寺の鐘は、第六番長谷寺第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。

伊弉諾尊と伊弉冉尊が国造りをしたとき、東方で最初にできた山が筑波山とされる。この山には絶頂が2つあり、西の峰には伊弉諾命が鎮座したので男体権現、東の峰には伊弉冉命が鎮座したので女体権現と称した。また、日の神が父母の二神を慰めるため、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで着いたため、筑波山と号したといわれている。

大御堂の風景

大御堂の風景

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Copyright (C) 2008-2009 七鍵 key@do.ai 初版:2008年12月28日 最終更新:2009年12月23日