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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b25_oomidou.html#basic
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延暦元(782)年に、徳一上人の開山により創建されたといわれる。徳一法師が当山に登ると一人の天童が現れ、月輪洞と称する岩窟の場所を示した。法師が岩窟の近くに庵を結んでいると、麓の巫女が神憑りとなって山の故事を法師に語ったため、法師はこのことを都に奏上し、桓武天皇の勅によって創建されたと伝わる。その後、百三十歳となった法師は、岩窟で定に入ったという。弘仁年間(810〜24年)には空海が入山し、空海は自ら山嶺を極めて堂宇を建立し、知足院中禅寺と号した。この頃から、筑波山(筑波山神社)と神仏習合により信仰されたと伝わっている。
鎌倉時代には、常陸の守護八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、後に出家して名玄と名乗り、別当をつとめて子孫もそれを継いだ。応永5(1398)年には、落雷によって堂宇が焼失し、後に源海上人が再興した。江戸時代には、筑波が鬼門に当るところから祈願所と定められた。徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉上人がこの寺に住し、慶長19(1614)年には大阪城攻略の戦勝を祈願し、徳川家の恩寵を深くした。また、徳川家光は十八間四面の御堂と共に、三十塔、桜門、鐘楼などを建立し、多くの寺領を有するなど中禅寺はおおいに繁栄した。貞享3(1686)年、第十一世隆光上人の代には、寺領千五百石の寺格を有する大寺となり、十八支院、三百の住僧を数えたと伝わる。
しかし、明治初年の廃仏毀釈により、筑波神社は残されたが七堂伽藍は破壊されて廃寺となった。本堂は破却され、仁王門は筑波山神社の随神門になったという。その後、昭和5(1930)年に大御堂のみが再建された。本堂は、昭和13(1938)年7月3日の大豪雨で土砂濁流と共に埋没、昭和36(1961)年に民家を移して再建された。この山崩れの際、御堂が埋没したときも、千手観世音は奇跡的に土砂中より出現し、かすり傷も負わなかったといわれている。
当寺の鐘は、第六番長谷寺、第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が国造りをしたとき、東方で最初にできた山が筑波山とされる。この山には絶頂が2つあり、西の峰には伊弉諾命が鎮座したので男体権現、東の峰には伊弉冉命が鎮座したので女体権現と称した。また、日の神が父母の二神を慰めるため、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで着いたため、筑波山と号したといわれている。
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