第29番札所 海上山千葉寺

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海上山千葉寺の基本情報

最終更新
2008-12-28T00:00:00+09:00
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正式名称と通称
海上山 千葉寺(かいじょうさん せんようじ) 通称:千葉寺(十一面観世音菩薩
本尊と宗派、開基と開基年
十一面観世音 / 真言宗豊山派  / 行基菩薩和銅2(709)年
真言
おんまか きゃろにきゃ そわか
御詠歌
ちばでらへ まゐるわがみも たのもしや きしうつなみに ふねぞうかぶる
所在地と電話番号
〒260-0844:千葉県千葉市中央区千葉寺町161(043-261-3723)
位置
緯度:35度35分42.421秒(35.595117)、経度:140度7分54.16秒(140.131711)
納経所
夏:8時〜17時(4〜10月)、冬:9時〜16時(11〜3月)
前札所と次札所
前札所:第28番札所 龍正院 / 次札所:第30番札所 高蔵寺
交通と駐車場
最寄駅は、JR 千葉駅から3km。
千葉寺駅から1km
駐車場:大型2台、普通車10台
拝観料
-

海上山千葉寺のその他情報

最終更新
2010-03-21T13:18:50+09:00
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歴史と謂れ

『千葉寺縁起』によれば、行基が十一面観音を安置したことに始る。和銅2(709)年にこの地を訪れた行基は、池田の郷で栴檀の香りが漂い金色に輝く池を見つけた。池の中央には雲が集り「三界六道、皆令解脱」との声が聞こえたため、行基が不思議に思っていると、やがて風が吹いて雲が晴れ、千葉の青蓮華が生じて十一面観音が説法している姿を感得した。「池の中に茎一本に花二つ開き、千葉の青蓮華あり、其の花の中に弥陀如来、観音大士の二尊並びましまして説法し玉ふ」との瑞蓮と表現されるもので、行基は丈六の十一面観音像を刻み、唐の西明寺宗鑑大師作の観世音を腹中に籠めて安置したといわれている。行基は都に青蓮華を送り、聖武天皇から「三界六道青蓮千葉寺」の勅額を賜り、海照山千葉寺と称した。その後、十八間四面の観音堂が建立されるなど、繁栄を示した。

しかし、永暦元(1160)年には、落雷のため諸堂および霊宝の全てを焼失。この折、本尊は西の林に飛び移り、桜の木の枝で難を避けたといわれる。このことから、有縁の地として現在地に移転したと伝えられており、「奇なるかな、本尊の開帳には必ず花の咲くこと時節にかかはらず」と『板東霊場記』にもある。また、現在の東方約1kmのところには、「三界六道観世音旧跡」と記された石碑もある。しかし、奈良時代後期の特徴を示す布目瓦などが境内から出土しており、創建当初から移転はなかったと考えられている。また、近年の発掘調査によって、金堂を中心として南大門や東大門、西大門、講堂などの存在が確認されている。

中世になると、下総一帯を支配し源頼朝の旗揚げに大きな力を与えた豪族千葉氏の祈願所として栄えた。千葉常重が千葉猪鼻城に移ってから千葉氏の祈願所となり、堂宇の修築などがなされた。頼朝は、伊豆石橋山の戦いに敗れて安房に逃れ、再挙する際に千葉寺に祈願している。頼朝は後に、源家を再興し得たのはひとえにこの観音さまの冥助なりと、千葉常胤に命じて運慶作の愛染明王を寄進している。

永禄11年(1568)年、胤富は海上郡を永代寄進し、第十四世空山上人と共に中興した。しかし、織田信長によって寺領は十分の一に減らされ、豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏と共に千葉氏は滅亡し、千葉寺の衰運につながった。天正18(1590)年、中興開山空山のときに、徳川家康が朱印百石を寄せ、二代将軍秀忠の参詣も再度にわたり、元和9(1623)年には観音堂が新築された。江戸将軍家とのゆかりによって大いに寺格を高めたが、元禄2(1689)年の火災で一山を烏有に帰し、その後文化3(1806)年には門前百姓佐七方より出火し本堂をはじめ諸堂宇を焼失した。本尊も火災に遭っており、現在の本尊は文化6(1808)年造顕といわれている。さらに、嘉永5(1852)年に出火して庫裡や客殿などことごとく灰燼に帰している。しかし、その都度近隣への勧進をはじめ、江戸へご本尊の出開帳を催すなどして浄財を集めて再興をしている。明治初期には寺領を没収され無住となり、船橋本覚院の兼務になるほど衰えたが、村内の有志によって土地の払い下げを請願し、土地を得て十二間四面の本堂を建てて復興したものの、再度火災に遭っている。今日では、鉄筋コンクリート造りの本堂が新築されている。

堂塔

千葉寺の山門山門は、天保12(1841)年に再建された単層入母屋造り。

千葉寺の本堂文政11(1828)年建立の観音堂は、昭和20年の戦災で失われたが、昭和51年に再建されている。

千葉寺の鐘楼

千葉寺の手水台

行事

その他の情報

千葉寺のイチョウ千葉寺のイチョウは、県指定天然記念物。開創の時に植えたと伝えられている。樹齢は800年以上。

当寺の鐘は、第六番長谷寺第二十五番大御堂とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。

千葉寺は、「千葉」という地名の発祥の地とされている。

鋳銅梅竹文透釣灯籠は、国の重要文化財。天文19(1550)年の銘がある。明治43(1910)年に発掘され、現在は東京国立博物館の所蔵。

千葉笑い千葉笑いとは、千葉寺に伝わる奇習。毎年大晦日の夜になると、地元の人たちが覆面で顔を隠して集り、声を変えて奉行や代官、庄屋の善悪不正、えいこひいきや、親不孝者などの批判をして明け方まで笑いあうとの習慣。千葉笑いを詠んだ一茶の句が残されている。「千葉寺や 隅に子どもも むり笑い」また、岡本綺堂は、この千葉笑いの習俗を題材にした戯曲を著している。

千葉寺には「戻り鐘」との奇聞が伝えられている。弘長元(1261)年の古鐘を江戸で改鋳しようとしたとき、「千葉寺…」と自ら鳴り始めたといわれ、そのまま戻したと伝えられている。しかし、この鐘も文化3年の火災で焼失している。

大師堂は、文政年間(1818〜30年)に建立された。

千葉寺の風景

千葉寺の風景

千葉寺の風景

千葉寺の風景

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Copyright (C) 2008-2010 七鍵 key@do.ai 初版:2008年12月28日 最終更新:2010年03月21日