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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b05_syoufukuzi.html#basic
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僧道鏡が下野国の薬師寺戒壇院へ赴く途中、孝謙上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのが勝福寺の始りと伝えられている。この観音像は毘首羯磨の作で、天平勝宝5(753)年に鑑真が唐から請来したものと伝えられ、当初は「普陀落山弓削寺」と号し、道鏡の出身である弓削氏の氏寺であった(『吾妻鏡』にも「弓削寺」と記されている)。『坂東霊場記』には、「当国足柄郡千代の里に至り笈仏急に重くなり押居らるる如にして一歩も進むことを得ず」と記されている。
千代村では、金堂、講堂、東院(観音堂)、東培、西塔、南大門などが広がっていたと伝えられるが、本尊の霊告によって天長7(830)年に2kmほど離れた現在地に移る(戦国時代の初めに太田道灌が城を千代台に築いた折に移転したとの説もある)。室町時代の応永25(1418)年には小田原城の鬼門鎮護の道場となり、称光天皇から勝福寺の勅号を賜ったとされる。小田原北条氏の帰依を得、歴代城主の保護もあつく栄えたといわれる。
本堂は、神奈川県指定の文化財。宝永3(1706)年に再建された宝形造り。
十一面観音立像は、神奈川県指定の文化財。本堂内陣の春日造りの厨子に納められ、高さ二尺八寸、素木造りで三十三年目ごとに開扉される。眼と唇以外には彩色を施しておらず、関東における十二世紀頃の制作と考えられている。
境内の大イチョウは、神奈川県指定天然記念物(昭和32年指定)。樹齢数百年といわれる雄株で、乳イチョウと呼ばれ乳の出ない婦人が願をかけたと言われている。
朱塗りの仁王門は、小田原市指定の文化財。現在のものは江戸時代初期の再建。富士の裾野で父の仇討ちを果たしたことで名高い曽我兄弟が、仇討の成功を祈り怪力を授かったと伝えられる仁王尊が祀られている。
銅鐘は、小田原市指定の文化財。室町期の手法により、寛永6(1629)年に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が造ったもの。また、この銅鐘は江戸の侍、佐須弥左衛門尉政重が奉納者とも記されている。総高139cm、鐘身高100cm、口径74cm、竜頭高28cm。
青銅水蜂は、小田原市指定の文化財。
宝永元年鋳造の龍頭の手水鉢。
正面左手には飯泉地区の鎮守である八幡社があり、寺院と神社との境界もなく神仏習合時代の面影を今に残している。
元もとの千代村にあった勝福寺は、現在「観音屋敷」と呼ばれ、天平瓦の出土地としても知られる。
文化元(1804)年、二宮金次郎が18歳の時、この勝福寺で旅僧が観音経を訓読するのを聞き一念発起したと伝わる。本堂前に少年二宮金次郎の本尊礼拝の像が建てられている。
酒匂川を渡る手前に国府津があり、ここから勝福寺までの道は「巡礼街道」と呼ばれている。
寛政年間(1789〜1801)、力士雷電が勝福寺の境内で土地の無法な力持ち岩五却(大岩谷五郎)を投げとばしたとされ、この話は講談でも伝えられている。
勝福寺のだるま市は有名で、千両市と呼ばれるほど賑わった。永禄年間(1558〜70年)に始ったと伝えられている。
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