チャップリン【Sir Charles Spencer Chaplin, Jr.】
チャップリンの概要
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チャーリー・チャップリン【Sir Charles Spencer Chaplin, Jr.】(1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、ハリウッド映画初期の俳優で脚本家、映画監督。本名はチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニア【Charles Spencer Chaplin, Jr.】。映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。
チャップリンの略歴
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- イギリスのロンドン出身。両親はミュージック・ホールの芸人だったが、1歳のときに離婚。
- 10歳の時に木靴のダンスを専門とする一座に加わる。
- 1908年:フレッド・カーノー劇団に入り、酔っ払いの演技で頭角を現す。
- 1913年:カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際、映画監督マック・セネットの目にとまり週給150ドルで喜劇俳優としてデビュー。
- 1914年:34本もの短編に出演。
- 1915年:エッサネイ社に移籍。週給1250ドル。ここで14本の短編を監督、主演する。
- 1916年:15万ドルという破格の契約金でミューチュアル社に迎えられる。週給1万ドル。
- 1918年:自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル社と年間100万ドル超の契約を結ぶ。
- 1919年:ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現MGM傘下)を設立。
- 1918年:チャップリン・スタジオを建設。
- 1952年:『ライムライト』のロンドンでのプレミアのためにイギリスに向かう最中、事実上の国外追放命令を受ける。
- 1965年:エラスムス賞を受賞。
- 1972年:アメリカ映画界からアカデミー賞特別名誉賞。
- 1975年:エリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となる。
- 1977年:クリスマスの朝に、スイスのヴェヴェイの自宅で永眠、88歳。
- 死後、金銭目的で墓から遺体が持ち出される事件があったが、遺体は墓の近くのトウモロコシ畑で発見される。
チャップリンの残した名言
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- 薔薇は美しく咲くのではない。一生懸命咲いているから美しいのだ。『ライムライト』より
- 人生はアップで見ると悲劇だが、ロングショットではコメディだ。
- この人生はどんなにつらくとも生きるに値する。そのために必要なものは、勇気と想像力とほんの少しのお金だ。『ライムライト』より
- 人間には、憎悪や不快を忘れさせてしまう性質がある。
- 私は祖国を愛している。だが、祖国を愛せと言われたら私は遠慮なく祖国から出てゆく。
- 私は肩書きに興味はない。尊敬するのは、その人の業績だけだ。
- 子供は世界中で一番手ごわいお客さんで、なかなか笑ってくれない。
- 一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化するのだ。『殺人狂時代』ラストシーンより
- アイデアは、それを一心に求めてさえいれば必ず生まれる。
- 意味を求めたってはじまらないよ。人生は欲望だ。意味などどうでもいい。『ライムライト』より
- 幸福を手にするための戦いは美しいものです。『ライムライト』より
- 死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。『ライムライト』より
- この年になると希望なんてあるわけがないよ。瞬間瞬間を生きている。だけど時に人生には素晴らしい瞬間もある。『ライムライト』より
チャップリンの逸話
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- 愛称は「チャーリー」。
- 一介の貧困階層の市民として当時の世相や政府を風刺したものが多く、笑いの中に思想的でアナーキーなものを追求する作風が多い。
- ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に公開された『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判しているチャップリンは「ヒトラーという男は笑い者にしてやらなければならないのだ」との言葉を残している。
- 運転手(後にマネージャー)に高野虎市を採用し、家の使用人が一時期すべて日本人で占められていたとされる。
- 1932年5月14日に初来日。その道中で五・一五事件に遭遇。犬養毅との面会予定をキャンセルし、チャップリンは相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかったが、標的として狙われていたとされる。
- 来日の際より天ぷらが大好物となり、「天ぷら男」のあだ名がつけられた。
- チャップリンが映画の中で使用した有名なステッキは、滋賀県産の竹で作られた。
- 大正時代から日本では「変凹君」「アルコール先生」という愛称で親しまれた。
- 手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」との質問に対し「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれに全ての答えがある」と答えたとされる。
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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年10月23日 最終更新:2007年10月23日