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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b32_kiyomizudera.html#basic
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延暦年間(782〜806年)、伝教大師が東国教化の旅に出ようとしていたとき、霊夢に行叡居士が立った。京都清水寺の地を延鎮上人に譲った後、観音応現の霊地を求めて上総国に下ったことを告げ、居士は雲に乗り東へと去ったという。やがて旅に出た大師は、諸国を巡って上総国に至ったとき、広野で夜をむかえたがそこに一人の樵が現れ、家に招いて歓待した。朝になると樵の家はなく、熊野権現の社のみがある。周辺の風景が京の音羽山に似ているところから、行叡居士が霊夢で語った霊地に違いないと思い、堂舎を建立すべく、神社のそばに庵を結んでいた。夜ごとに金沢谷から放光の奇瑞があり、そこから観音像を感得したが、勅命によって帰洛し、志を遂げることはできなかった。大同2(807)年、慈覚大師が師の志を継ぎ庵に住み、楠をもって千手観音像を刻んだ。『坂東霊場記』には、「上総国夷隅郡鴨根村、音羽山清水寺、熊野権現垂跡の所、円通大士影向の山なり、本尊の彫造、道場の開基は伝教大師の発願、慈覚大師の勲功なり」と記されている。さらに、坂上田村麻呂が東征の途中で堂宇を建立し、十一面観世音を奥の院へ、千手観世音を本堂に納めたといわれている。
文明13(1841)年に堂塔は全焼、本尊の千手観音は下部を焼失したが、十一面観世音は難を免れた。その後、文化10(1813)年の火災で、仁王門を残して全てを焼失したが、両観世音は無事であった。
四天門は入母屋造の楼門で、「音羽山」の扁額を掲げる。本堂とともに文化14(1817)年に再建されたもの。
本堂は、八間四面、江戸期の建築様式がふんだんに取り入れられ、文化14(1817)年の建立。
坂東33箇所、西国33箇所、秩父34箇所の計百観音が安置されている。
木造十一面観音立像は、県指定有形文化財。奥の院に安置されている。1mあまりの檜素材の寄せ木造りで、玉眼と白毫には水晶が使われ、手には錫杖と宝瓶を持ち、鎌倉時代の作といわれている。
夏でも涸れることのない本堂前の千尋の池が、寺号の由来とされる。
境内の芭蕉句碑には 「木枯に岩吹き光る杉間哉」 と刻まれている。
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