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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b08_syoukokuzi.html#basic
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もとは、寺の北東にある山頂(現在の座間谷戸山公園・伝説の丘)にあった観音堂の別当寺として建立されたもので、観音堂とともに行基によって創建されたと伝えられる。寺伝によれば、天平年間(729〜49年)に行基が来錫し、周辺の住民が恐れて近寄らない「見不知森」の中で法華経読誦の声を聞いたといわれる。よく見ると、それは古木の根洞にいた観音の声であった。このことが『坂東霊場 記』では、「かの法華経を読みたるは正しく此尊像にてましますかと、感涙墨染の袖を絞り、土人に対し件の由を告げ玉へば、老若競い来たりて拝念し頻りに大悲殿を営構して、感得の霊像を安置し奉る」と記されている。また一説には、行基が絢爛たる金光星の如く山谷に輝くのを見、既に小堂があったが自ら聖観音の像を彫刻し、新しい御堂を立てて堂宇を営んだとされる。延暦年間(782〜806年)には、坂上田村麻呂が東国遠征の途中に当寺に立ち寄り、戦勝を祈願している。また、花山法皇も関東巡幸の際この霊場に立ち寄ったといわれている。
鎌倉時代には、兵乱で伽藍の多くを失い、更に相模野の野火に観音堂が全焼。その時、本尊は火中より飛び出し、南方600メートルほど離れた杉の枯れ枝に移動して光明を放っていたとの伝説がある。『坂東霊場記』によると「南方補陀落山は大悲観世音の浄土なり、今や本尊南の方へ飛移り玉ふは度生有縁の地ならんと即ち其の地を占て殿堂を中興」とあり、時の住僧理源がここが有縁の地と感じて現在地に移転したといわれている。
のちに歴代北条氏の篤い保護をうけ、永正16(1519)年の箱根別当領目録には「十一貫五百文、ほしのや寺ぶん」とある。また徳川家康によって座間郷に寺領の寄進を受け、江戸幕府から朱印状を与えられていた。
銅鐘は、国指定の重要文化財(昭和42年指定)。沙弥西願によって嘉禄3(1227)年に勧進鋳造された梵鐘。「相州星谷寺、大檀那源朝臣信網、大工源吉国」との銘がある。東日本最古の鐘といわれ、全国で50番目、関東以北では2番目(最古は茨城県の等覚寺にある)に古い鐘である。憧座が1か所しかなく、江戸時代から日本三大奇鐘の一つに数えられている。昭和50年には、立派なコンクリート造りの鐘楼が完成した。
本堂は、堂葺の五間四面。
『風土記稿』には、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とあるが、これは元々の場所を指し、現在そこには「本堂」の地名が残っている。
本尊の聖観世音は秘仏とされ、「厨子は午年の10月18日にしか開けてはならない」との伝承があり、開けると住僧に災いが起こると言われてきた。
鐘楼の横に、北原白秋の門下生で座間出身の歌人鈴木英夫の歌碑がある。
星谷寺は、「ほしやでら」とも呼ばれる。
この寺には、古くから「星谷寺の七不思議」の言い伝えがあり、七不思議の絵葉書も売られている。
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