七福神

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七福神とは

最終更新
2008-01-06T00:00:00+09:00
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七福神は、福徳をもたらす神として信仰される七柱の神。七福神信仰が盛んになった近世中期以降、一般に以下の七柱の神を指して七福神とする。

インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、支那の仏教(布袋)と道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿)が入り混じって形成された神仏習合からなる、いかにも日本的な信仰対象である。

七福神の歴史

最終更新
2008-01-14T17:54:37+09:00
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七福神信仰は、室町時代末期頃の京都に始ったと言われている。恵比寿や大黒などは個別の福の神として、平安時代後期には既に信仰の対象とされていた。また、鎌倉時代以降に普及した永楽画の影響で、禅画の画題で親しまれる布袋和尚や道徳思想から発生した福禄寿、寿老人がよく知られるようになったといわれる。さらに、南北朝時代の仏画には、現在見られるような姿の大黒天や毘沙門天、弁財天などが登場してくる。

そのような中、時代は室町末期となり、応仁の乱などの長い戦乱によって武士のみならず庶民も疲弊し、また同時に商業が形を持ち始めた頃でもあり、庶民が個人の富や現世利益を願うようになってきた。従来の神様は、国や村の護国豊穣を願う対象であったが、室町時代末期となりようやく庶民の個人的な願いを託す対象として福の神信仰が広がっていくことになる。

こうした時代背景のもと、室町時代には「七難即滅」や「七福即生」のように「七」との数が聖数と考えられるようになり、また当時好まれていた「竹林の七賢」などにも倣い、七柱の神様が組み合わされて七福神が誕生したと考えられている――竹林の七賢とは、支那の晋代末期に山陽(江蘇省)の竹林に個性豊かな七人が集って酒を酌み交わしながら、自由・放達な談論にふけったとの有名な故事。記録には、応永27年(1420年)に京都伏見で七福神の風流行列が行われた、文明年間(1469-1487年)の京都市中に七福神の格好をした「七福神盗賊」が出没したなどが残っている。加えて、江戸時代後期の画家・谷文晁(1763-1840)は、著書『三養雑記』で「七福神の絵は、狩野松栄以前の絵を見ず」と記している。狩野松栄は、永正16年(1519年)に生まれ、天正20年10月21日(1592年11月24日)に没したとされる安土桃山時代の狩野派の絵師である。これらのことから、七福神の体系は、室町時代に町衆文化の中で蓄財観念が萌芽し、福徳との現世利益を求める意識から形成されたと考えられる。その後七福神は、瑞祥のしるしとして様々な絵画や彫刻の題材となり、歌謡・舞踊・能・狂言など芸能の世界まで広く浸透した。

これが商業資本主義の発達をみた江戸時代になると、福徳授与の神としての七福神信仰はますます盛んになる。天明年間(1781-1789年)には「七福神詣で」と称し、正月元旦から7日までに一年の幸福を祈って七福神を祀った社寺を巡拝することが流行し、それ以後年間行事の1つとして定着することになる。また、正月にめでたい初夢を見るため、宝船の絵を枕の下にしいて寝ることもこの頃から庶民のあいだに普及。江戸の町方では、正月の縁起物として七福神と金銀財宝を乗せた宝船の図柄に「永き世の眠りのみな目覚め、波乗り船の音のよきかな」との回文を添えた贈り物が「おたから、おたから」の呼び声とともに売られていたといわれる。

このきっかけは、徳川家康の政治指南役で上野寛永寺開祖・天海僧正とされる。恵比須は「律儀」(または清廉)、大黒天は「有徳」、毘沙門は「威光」、弁才天は「愛敬」、布袋は「大量」、福禄寿は「人望」、寿老人は「寿命」をそれぞれ表すとし、これらの7つの徳が人生にとって大切であると天海は徳川家康に説いた。これにより家康が七福神信仰を奨励し、江戸時代には盛んに七福神を祭る神社仏閣が建てられるようになった(出典:『江戸文学俗信辞典』)。また、家康は狩野法眼深幽に七福神の絵を描かせ、それを尊崇したとも伝えられる。

七福神の遷移

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2008-01-06T00:00:00+09:00
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七福神は、最初から現在の七神が揃っていたわけではない。まず最初に福の神として信仰されていたのは、大黒天であったと考えられている。日本に大黒天をもたらしたのは伝教大師、最澄との説が有力。最澄が唐から日本に戻ってきて天台宗を開く際に、守護神として大和三輪山の三輪明神を勧請したと伝えられる。そのため、大黒天の形をとった三輪明神が叡山に招かれ、大国主命の神霊として天台宗の守護神に位置づけられるようになった。このときの大黒様は、弁才天、毘沙門天との三面大黒天だったと言われている。この大黒は、叡山の止観院を創設した際の政所の大炊屋に安置されたため、庶民には「比叡山の厨房の神」として伝わり、室町時代末期には京都を中心に家の福の神として祀られるようになったとされる。その後、海からの幸を携える恵比寿と並べられて、より福運を願うニ神並祀となった。

次に加えられたのは「天細女命(あめのうずめのみこと)」(出典:『民具の博物誌』)。天細女命は、天照大神が岩戸にこもった際に、岩戸の前で踊った女命として有名で、芸能の元祖と仰がれていた神様である。また、天孫降臨に随従して苦りきった猿田彦神の表情を和らげた女神ともされ、後に「笑う角には福来る」として道化のお多福にも見立てられるようになった。このような性格から、当初三福神の一柱に加えられていたが、当時の京都では弁才天の人気が強かったために、天細女命の代わりに弁才天が選ばれたといわれる。また、当時は吉祥天との女神も信仰されていたが、吉祥天は恐ろしい女神と思われていたため敬遠された。

三福神では物足りないと考えたのか、それとも三面大黒の一面が抜けていたためか、京の庶民達は毘沙門天を加えて四福神とし、さらに「四」との数が忌まれたために布袋和尚を加えて五福神とした。最後に福禄寿と寿老人が加えられ、七福神が誕生することとなった。この際、五福神に福禄寿を加えただけでは六福神になるため、「福」と「禄」を福禄寿とし、「寿」だけを独立させて寿老人を作り、無理矢理七福神としたと伝えられる。当時の人々が五でも六でも八でもなく、「七福神」にこだわったのは、仏教教典『仁王護国般若波羅密経』受持品の「七難即滅 七福即生」の箇所にちなんだためとか、支那の「竹林の七賢」に倣ったためなどと考えられている。

このように、現在信仰されている七福神の形は、既述の通り室町時代末期には出来上がっていたと考えられるが、江戸時代中期頃、全国的な庶民文化の台頭と余暇の増加に伴って七福神の構成を考え直す動きが出始めた。福禄寿と寿老人は神様ではなく仙人であり、元々数合わせ的に参加させられたためか、元禄10年(1697年)の『日本七福神伝』には、「福禄寿の変わりに吉祥天を七福神に加えてもよい」と記され、また享保年間(1716-1735年)の『書言字考』では寿老人に代えて猩猩が七福神の一柱とされている。また、寿老人と福禄寿はともに南極老人星の化身とされることから、この二神は本来同一とみなし、寿老人の代わりに吉祥天や猩猩が入れられた時代もあったといわれている。また、福助とお福を七福神に加えようとの動きもあったといわれている。

宮田登著の『江戸の小さな神々』によると、京都では五福神が定着したが、これが江戸に伝わり18世紀半ばに七福神に増やされたとされる。しかし、室町末期に京都で七福神の風流行列が行われたことや、七福神盗賊の伝説があったこと、江戸時代の谷文晁の文献などを踏まえ総合的に考えると、室町末期には既に京都で七福神が完成していたと考える方が妥当である。

福助は、吉原にあった桔梗屋の主人・叶福助が、自身を福の神の一神として加えて八福神にしようとしたもの。文化元年(1804年)に福助人形が売り出され、人形は飛ぶように売れたが八福神とはならなかったようだ。

宝船

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2008-01-06T00:00:00+09:00
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宝船は、七福神と金銀財宝を満載した船の絵で、「永き世の眠りのみな目覚め、波乗り船の音のよきかな(なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな)」との回文が書かれているものもある。元々は、財宝を満載した宝船の絵を大晦日から元旦にかけての夜に枕の下に敷き、良い初夢を見ようとの風習であり、江戸時代初期に流行したとされる。その後いつ頃からか宝船に七福神が描かれるようになり、江戸時代中期には定着していたとされる。ただし、将軍家や禁裏、武家の宝船には七福神が乗っていなかったとされ、七福神が乗った宝船は庶民の間で流行したと考えられている。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月06日 最終更新:2008年01月14日