年忌

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年忌とは

最終更新
2008-01-14T15:51:35+09:00
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年忌は「ねんき」と読み、日本の仏教において亡くなった親族に対して、繰り返して行われる法要や追善供養のこと。発祥地であるインドの仏教においては、故人の命日より数え、7日毎の、初七日(しょなぬか)、二七日(ふたなぬか)、三七日(みなぬか)、四七日(よなぬか)、五七日(いつなぬか)、六七日(むなぬか)、七七日(なななぬか)の7回を忌日とし、僧侶を招いて読経や供養の法要――これを法事とも呼ぶ――を行っていた。中でも七七日は「四十九日(しじゅうくにち)」や「満中陰(まんちゅういん)」とも呼び、とりわけ重要視していた。これは、インドでは輪廻の思想により、人の没後49日目に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まると考えられていたからである。また、元の生と次の生との中間的な存在である49日間の状態を「中有」または「中陰」と呼んでいた。

日本でも死者が出た家族は、一定期間喪服を着て日常とは異なった生活をするのが習わしで、これを「喪に服する」や「忌みに入る」という。一般的には服喪は四十九日の喪明けまでで、服喪の期間中、特に初七日までを「忌中」と呼ぶ。明治時代には服忌令が出され、父母が死亡したときの喪日は50日、服日は13か月、夫が死亡したときの喪日は30日、服日は13か月と服喪期間が定められた。喪日は喪中期間のこと、服日は喪服を着ている期間のことだが、現在、服日はほとんど廃れている。

喪の期間中は、残されたものは念仏を唱え、社交的な行事に加わらず、忌明けまでは一切の生臭物と呼ばれる魚などを口にせず、門松餅つきなどの正月の行事も全て止めて、ひたすら喪に服した。現在はこうした習わしはほとんど失われ、翌年の正月を前にして年賀欠礼の通知を出す程度である。

四十九日間で喪中が終ると、50日目からは平常の生活に戻るが、これを「忌明け(きあけ)」と呼び「精進落とし(しょうじんおとし)」をした。元々仏教では、修行に努めることを「精進する」といい、この修行期間中は心身を清らかに保つために行動や飲食を慎み、魚や肉などの生臭物を一切断ち、ひたすら菜食のみとした。そして精進の期間が過ぎて日常の生活に戻ることが、本来の精進落としである。この考え方が、葬送などの習慣として一般にも広がり、喪中の期間は生臭物を一切控え、喪が明けるとその区切りとして、魚や肉、酒を口にするようになった。現在では骨上げが済んで帰宅した後に、葬儀で世話になった僧侶や近親者、友人などを招いて酒肴のもてなしをすることも多く、これがいわば精進落としとされている。

死後、満一年を経た一周忌の祥月(死亡した月のこと)命日に法要を営み、死者の冥福を祈る。周忌は回忌とも呼び、毎年回ってくる忌日の法要を年忌法要や遠忌法要と呼ぶ。一周忌の次は三回忌だが、ここからは死去した年も年数に入れるため、三回忌は一周忌の翌年に当る。その後、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌と行うのが一般的であるが、宗派によって異なるものもある。また、五十回忌、百回忌を行う場合もある。

四十九日までの法要の後、命日から百日目に百か日の法要が行われるが、この百か日と一周忌、三回忌の三種の法要は、中国の儒教の祭祀の影響によって付加されたものである。これは、亡者が百か日を含めた8つの忌日と、一周忌、三回忌の2つの年忌の、合計10度の時点で、冥界の十人の王に審判を受けるとの「十王信仰」に基づいている。

また、その後の七回忌以降の法要は、日本で独自に付加されたものである。日本では11世紀以降に、十王信仰が広まったといわれる。さらにその後、鎌倉時代に七回忌、十三回忌、三十三回忌が行われるようになったが、これは十三仏信仰に基づいている。これは、十王信仰の各王を垂迹と見て、それぞれの王に本地となる仏菩薩を擬定し、それぞれの法要の時には、その仏菩薩を本尊として法要を行うというものである。

三十三回忌、或いは五十回忌を最後の年忌にするのが一般的であり、それを「弔い上げ」「問切り」と呼び、その時に寺への寄進や永代供養を行う場合が多い。また、三回忌、七回忌、十回忌のいずれかの年忌のときに墓石を建てる宗派もある。

神道では、一年祭、五年祭、十年祭、二十年祭、三十年祭、四十年祭、五十年祭、百年祭と続く。神道では、年数を重ねるほどに死者の霊魂の穢れが薄まり、祖先霊に近づいていくとの考え方がある。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月14日 最終更新:2008年01月14日