豊臣秀吉
豊臣秀吉の概要
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豊臣秀吉/羽柴秀吉(とよとみ ひでよし/はしば ひでよし:天文6年2月6日[1537年3月26日] - 慶長3年8月18日[1598年9月18日])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。百姓として生まれて織田信長に仕え次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられ、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
豊臣秀吉の略歴
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- 天文6(1537)年2月6日:尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に百姓と伝えられる弥右衛門、なかの子として生まれる。幼名は日吉丸。
- 木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕える。
- 天文23(1554)年:この頃から織田信長に小者として仕える。
- 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果をあげる。
- 永禄7(1564)年:浅野長勝の養女ねねと結婚。
- このころ斉藤氏の影響下の美濃より竹中重治、川並衆の蜂須賀小六、前野長康らを配下に組み入れている。
- 永禄11(1568)年:信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任される。
- 元亀元(1570)年:越前朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、越前金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は殿軍を願い出てこれをよく防ぐ(金ヶ崎の退き口)。
- 天正元(1573)年:浅井氏が滅亡するとその旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改めて長浜城の城主となる。
- この頃、丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている(羽柴秀吉)。
- 近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や石田三成・加藤清正・福島正則などの有望な若者を積極的に登用。
- 天正4(1576)年:越後の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還。その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。
- 信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨に進軍し、赤松則房、別所長治、小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。
- 天正7(1579)年:備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させる。
- 天正8(1580)年:織田家に反旗を翻した播磨三木城城主・別所長治を2年に渡る兵糧攻めの末降伏させる。同年、但馬の山名堯熙が篭もる出石城も攻め落とす。
- 天正9(1581)年:山名家臣団が因幡の山名豊国を追放した上で毛利方の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させる。
- 天正10(1582)年:備中に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込む(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。
- 天正10(1582)年6月2日:主君の織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺される(本能寺の変)。このとき備中国高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知り、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返す(中国大返し)。
- 天正10(1582)年6月13日:明智光秀は山崎において秀吉と戦うが、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山重友までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は最終的に百姓に討ち取られる(山崎の戦い)。秀吉はその後光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握。
- 天正10(1582)年6月27日:尾張清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれる(清洲会議)。織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を推す。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となる。
- 天正10(1582)年10月:勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまく。
- 天正10(1582)年10月15日:秀吉は、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主とし、信長の葬儀を行なう。
- 天正10(1582)年12月:越前の柴田勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、12月9日に池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣、12月11日に堀秀政の佐和山城に入る。
- 天正11(1583)年1月:反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破る。
- 天正11(1583)年2月10日:秀吉は北伊勢に侵攻する。
- 天正11(1583)年2月28日:勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙。
- 天正11(1583)年4月20日:早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死、岩崎山砦の高山重友は敗走。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗、柴田勝家は越前に撤退(賤ヶ岳の戦い)。
- 天正11(1583)年4月24日:勝家は正室のお市の方と共に自害。秀吉はさらに加賀と能登も平定し、それを前田利家に与える。5月2日には信長の三男である織田信孝を自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏。
- 天正12(1584)年:信長の後継者を自称する信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発、対立するようになる。
- 天正12(1584)年3月6日:信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をする。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起。
- 天正12(1584)年3月21日:秀吉は大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入る。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。家康の堅陣から秀吉は長期対峙するしかなく、何度も挑発行為を行なうが家康には通じず(小牧の戦い)。
- 天正12(1584)年4月6日:森長可や池田恒興らが秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁し、三河奇襲作戦を開始。しかし、奇襲部隊であるにも関らず行軍が鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死(長久手の戦い)。
- 天正12(1584)年11月11日:信雄は家康に無断で秀吉と単独講和。家康は信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退。
- 天正14(1586)年:妹の朝日姫を家康の正室とし、さらに母の大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓う。
- 天正11(1583)年:石山本願寺の跡地に大坂城を築く。
- 天正13(1585)年3月10日:秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官される。
- 天正13(1585)年3月21日:紀伊に侵攻し、雑賀党を各地で破る。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定。(紀州征伐)
- 天正13(1585)年:四国の長宗我部元親に対し、弟の羽柴秀長を総大将として毛利輝元や小早川隆景らを出陣させ、総勢10万の大軍を四国に送り込む。これに対して元親は抵抗するも、兵力の差から7月25日には秀吉に降伏。元親は土佐のみを安堵される(四国征伐)。
- 天正13(1585)年7月11日:近衛前久の猶子として関白宣下を受ける。
- 天正13(1585)年8月:越中の佐々成政に対して征伐を開始、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許し越中新川郡のみを安堵。
- 天正14(1586)年9月9日:豊臣の姓を賜る。同年12月25日、太政大臣に就任、政権を確立(豊臣政権)。
- 天正15(1587)年:秀吉自らが弟の秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久・義弘らを降伏させる(九州征伐)。
- 天正15(1587)年:九州征伐完了後に博多においてバテレン追放令を発布、ただし事実上キリシタンは黙認。
- 天正16(1588)年:刀狩令を出し、大規模に推進。
- 天正18(1590)年:関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲。3か月の篭城戦の後に北条氏政・氏直父子は降伏。氏政・氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放される(小田原征伐)。これにより秀吉はついに天下を統一。長きに渡って続いた戦国の世を終わらせた。
- 天正19(1591)年:関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
- 文禄元(1592)年:16万人の軍で朝鮮に出兵(文禄の役)。朝鮮軍を撃破し漢城を占領するが、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や明から援軍が送られ、戦況は膠着化。翌年より休戦期。
- 文禄2(1593)年:側室の淀殿との間に秀頼が産まれる。
- 文禄4(1595)年:秀吉の甥で関白の豊臣秀次に切腹を命じる。秀次の補佐役であり、秀吉を長く支えてきた古参前野長康らも連座して切腹処分。
- 文禄5(1596)年:秀吉が日本に派遣されて来た明使節を追い返したことで文禄の役の講和交渉は決裂。
- 慶長2(1597)年:14万人の軍で朝鮮へ再度出兵(慶長の役)。
- 慶長3(1598)年8月18日:五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没(死因については胃がんなど諸説あり)。享年61。
豊臣秀吉の残した名言
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- 戦は六、七分の勝ちを十分とする。
- 主人は無理を言うなる者と知れ。
- 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢(辞世の句)
豊臣秀吉の逸話
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- 「猿」と呼ばれたとされる説は有名だが、「猿」との呼び名はその容姿から来たとする説がある一方、実際に秀吉が「猿」と呼ばれたのは関白就任後に落書などの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味での皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものという説もあり、まして信長がそう呼んではいないとする主張する者もいる。
- 書に優れたとされ、北大路魯山人は秀吉の書に対し、「新たに三筆を選べば秀吉も加えられる」と高く評価した。
- 天正12(1584)年、朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある。
- 生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日で幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は2月6日とされる。
- 美濃の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
- 秀吉は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスや前田利家の家臣が残した記録に書かれている。後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉はいくら周囲から奇異な目で見られても6本指を生涯通し、天下人になる前はその事を強いて隠しはしなかったという。しかし、天下人となった後は記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す形で描かせたといわれる。
- 太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される。
- 秀吉は当初キリシタンに好意的であったが、宣教師による信仰の強制やキリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食を理由に、天正15年(1587年)に伴天連(バテレン)追放令を出した。
- 秀吉の文禄・慶長の役の動機については諸説あるものの、最近の研究では、スペインやポルトガルの支那征服への対抗策であったという説がある。
- 蒲生秀行、小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)につかせる一因を成した。
- 死因は様々な説が唱えられており、有名な説の一つに脳梅毒によって死亡したというものがある。晩年は老耄だったとされ、人前で小便を漏らすこともあったといわれる。
五大老
徳川家康(筆頭)、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝(隆景死後)
三中老
生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴
五奉行
浅野長政(筆頭)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以
賤ヶ岳の七本槍
福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
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