武田信玄
武田信玄の概要
- 最終更新
- 2007-11-06T00:00:00+09:00
- この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/person/person_t/takeda_shingen.html#what
武田信玄(たけだ しんげん:大永元年11月3日[1521年12月1日] - 元亀4年4月12日[1573年5月13日])は、戦国時代の武将で、甲斐の守護大名・戦国大名。「信玄」とは法名で、諱は晴信。越後の上杉謙信と5度にわたって川中島の戦いで干戈を交えたことでも有名。風林火山の軍旗を用い「甲斐の虎」と呼ばれ、率いた武田軍は戦国最強と評される。
武田信玄の略歴
- 最終更新
- 2007-11-06T00:00:00+09:00
- この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/person/person_t/takeda_shingen.html#history
- 大永元(1521)年11月3日:甲斐源氏の名門・武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男として甲斐国・積翠寺城で生まれる。幼名は勝千代(かつちよ)。この年、甲斐は駿河の今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢に攻められていたが、武田軍は勝千代の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したと言われている。
- 大永5(1525)年:弟の武田信繁が生まれると、父の寵愛は信繁に移り、勝千代は徐々に疎まれるようになったといわれる。
- 天文2(1533)年:父の政略により迎えられた上杉朝興の娘を正室とする。
- 天文3(1534)年:正室が妊娠するも、難産で彼女も子も死去。後に、継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎える。
- 天文5(1536)年:元服。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、名を「晴信」と改め、従五位下・大膳大夫・信濃守に叙位・任官される。
- 天文10(1541)年:宿老であり有力国人領主である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌等に擁立され、父・信虎を駿河国へ追放し、武田家第19代家督を相続。
- 天文11(1542)年6月:諏訪領内に侵攻。諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていたため、晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定。
- 天文12(1543)年:信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込む。
- 天文14(1545)年4月:上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼす。
- 天文16(1547)年:志賀城の笠原清繁を攻める。緒戦苦戦するも、8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝。
- 天文16(1547)年:分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定める。
- 天文17(1548)年2月:信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突(上田原の戦い)。兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失う。
- 天文17(1548)年4月:小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝。
- 天文19(1550)年7月:小笠原領に侵攻。中信は武田の支配下に落ちる。
- 天文19(1550)年9月:村上義清の支城である砥石城を攻めるが、この戦いで武田軍は後世に「砥石崩れ」と伝えられる大敗を喫し、横田高松や小山田信有らをはじめとする1000人以上の将兵を失う。
- 天文20(1551)年4月:真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城。
- 天文22(1553)年4月:村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れる(東信も武田家の支配下に入り、北信を除き信濃をほぼ平定)。
- 天文22(1553)年4月:村上義清の要請を受けた長尾景虎が、5000の軍勢を率いて信濃川中島に進出。晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退(第1次川中島の戦い)。
- 天文23(1554)年:景虎に対抗するため、晴信は長男の義信の正室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせて、後北条氏とも同盟を結ぶ。今川氏と北条氏は武田家を仲介として、氏康の娘が義元の長男・今川氏真に嫁ぐことで同盟を結び、甲相駿三国同盟が成立。
- 弘治元(1555)年4月:武田軍と長尾軍が川中島で対峙するも戦果は無く、駿河の今川義元の仲介により両者は10月に和睦して撤退(第2次川中島の戦い)。
- 弘治3(1557)年:再び武田軍と長尾軍の対峙が始まるが両軍共に戦果は無く、景虎の留守中に加賀・越中で一向一揆が起こったため長尾軍は撤退(第3次川中島の戦い)。
- 永禄2(1559)年5月:晴信は出家して「信玄」(徳栄軒信玄)と号する。
- 永禄4(1561)年9月10日:武田信玄軍2万と上杉政虎軍1万3000との間で、4度目の川中島の戦いが行われる。この戦いで武田軍は信玄の弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力武将の多くを失ったという。
- 永禄7(1564)年:上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終る(第5次川中島の戦い)。
- 永禄9(1566)年9月:箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功。
- 永禄11(1568)年12月:三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始。
- 永禄12(1569)年:今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が今川氏の援軍に駆けつけ、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退。
- 永禄12(1569)年9月:信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵国・相模国に侵攻。
- 永禄12(1569)年10月8日:三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突、武田軍が大勝(三増峠の戦い)。
- 元亀元(1570)年7月:再び駿河に侵攻し、完全に平定。
- 元亀2(1571)年2月:信長の勢力拡大を危惧し、信長の盟友である徳川家康を討つべく遠江国・三河国に侵攻。
- 元亀2(1571)年10月3日:北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至る。
- 元亀3(1572)年10月3日:将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄し、上洛するために甲府を進発。
- 元亀3(1572)年10月14日:家康は、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れる(一言坂の戦い)。
- 元亀3(1572)年12月22日:家康ははじめ浜松に篭城の構えを見せていたが、武田軍の動きを見て兵1万1000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において激突。兵力の差と信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走(三方ヶ原の戦い)。
- 元亀4(1573)年:1月に三河に侵攻、2月10日には野田城を落とす(野田城の戦い)。
- 野田城を落とした直後から信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には甲斐に撤退することを決意。
- 元亀4(1573)年4月12日:軍を甲斐に引き返す途上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)で病死。享年53。
武田信玄の残した名言
- 最終更新
- 2007-11-06T00:00:00+09:00
- この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/person/person_t/takeda_shingen.html#wise_saying
- 為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ
- およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は、五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり。
- もう一押しこそ慎重になれ。
- 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり(『甲陽軍鑑』より)
- 人は遠慮の二字、肝要なり。遠慮さえあれば、分別にもなる。(『甲陽軍鑑』より)
武田信玄の逸話
- 最終更新
- 2007-11-06T00:00:00+09:00
- この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/person/person_t/takeda_shingen.html#anecdote
- 孫子に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」を軍旗として戦い、これは「風林火山」と略される。尚、余談ではあるが、風林火山の後には「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く。
- 日本で初めての金貨である甲州金(碁石金)を鋳造。甲斐には豊富な埋蔵量を誇る金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当したといわれる。ただし、金山の採掘に関して武田氏が直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。
- 仏教の信仰が篤かったとされているが、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいるなど、仏教に背く行為も多々みられる。
- 『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言ったとされる。
- 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行なわせたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。
- 死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦国遺文2638号)にみられる持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃がん若しくは食道癌による病死説が有力。
- 武田氏は勝頼の代で滅亡しているが、遺臣は徳川氏によって保護され、江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広くしられることになった。ただし、原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しなかった。選ばれた武将達も時代が離れており、全員が同時期に信玄に仕えていた事はなく、また資料によって顔ぶれも異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられている。
- 武田勝頼に対し「自分が死した後は上杉謙信を頼れ。また三年間は喪を秘せ」と言い残し、重臣の山県昌景に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したといわれる。
- 辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。戒名:法性院機山信玄。菩提寺:山梨県甲州市の恵林寺。
武田二十四将に数えられる武将
- 武田勝頼
- 武田信繁
- 武田信廉
- 一条信龍
- 板垣信方
- 甘利虎泰
- 横田高松
- 小山田昌辰
- 飯富虎昌
- 原虎胤
- 小幡虎盛
- 小幡昌盛
- 山本勘助
- 多田満頼
- 曽根昌世
- 小幡信貞
- 山県昌景
- 馬場信春
- 内藤昌豊(昌秀)
- 高坂昌信(春日虎綱)
- 真田幸隆(幸綱)
- 真田信綱
- 真田昌輝
- 真田昌幸
- 穴山信君
- 小山田信茂
- 秋山信友
- 原昌胤
- 三枝守友
- 土屋昌次
- 荻原昌勝
このページに関するご案内
-
この文書は
Keyから
資料集、
歴史、
人物とリンクを辿ると、当ページ
武田信玄に辿り着きます。
- Site mapよりこのサイトの全体的な構造を把握できます。
- 索引よりこのサイト内にある任意のキーワードを含んだ文書を探すことができます。
- この文書のURIは
https://www.7key.jp/data/person/person_t/takeda_shingen.html
です。
Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年11月06日 最終更新:2007年11月06日