伊達政宗
伊達政宗の概要
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伊達政宗(だて まさむね:永禄10年8月3日[1567年9月5日] - 寛永13年5月24日[1636年6月27日]は、戦国時代の武将で奥州の戦国大名。仙台藩初代藩主。幼少時に患った天然痘の後遺症により右目を失明し、また派手で知られたため、後に「独眼竜」との異名で呼ばれた。
伊達政宗の略歴
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- 永禄10(1567)年8月3日:出羽米沢米沢城に生まれる。
- 元亀2(1571)年:疱瘡(天然痘)を患い右目を失明する。それ以降、母親の最上義姫に醜いと疎まれ、弟の小次郎だけに母の愛情が注がれたとされる。
- 元亀3(1572)年:政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。
- 天正3(1575)年:神職の子である片倉景綱(小十郎)が守り役を命ぜられ側近となる。
- 天正5(1577)年:元服。
- 天正7(1579)年:仙道の大名で三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)を正室とする。
- 天正9(1581)年:隣接する相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。
- 天正12(1584):18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承(輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、年少を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった)。
- 天正13(1585)年:輝宗が、所領安堵の件などのお礼に来ていた畠山義継に、城門まで見送りに行った所拉致される。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡、畠山義継一行を父・輝宗もろとも鉄砲を放って1人も残さず殺害。
- その後、初七日法要を済ますと父・輝宗の弔い合戦のため早くも畠山氏の二本松城を包囲。畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など三万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で激突。反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利をおさめる(人取橋の戦い)。
- 関白豊臣秀吉は、関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、私戦禁止命令を発令。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行する。
- 北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。又、最上義光とも一触即発の事態となるが義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱する(大崎合戦)。
- 天正17(1589)年:奥州南部の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍と戦う(摺上原の戦い)。蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が葦名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していたが、黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼして奥州南部の大部分を支配下に置き、150万石の領主になる。
- 天正18(1590)年:秀吉の奥州仕置で政宗は小田原へ参陣。政宗は臣従を誓い本領を安堵されるが、会津領攻略は秀吉の令に反した行為とされ、会津領などは没収。
- 文禄2(1592)年:秀吉の朝鮮出兵に従軍して朝鮮半島へ渡る。
- 慶長5(1600)年9月:関が原の戦いで家康ら東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、伊達政景を名代として最上に援軍を派遣(長谷堂城の戦い)。
- 戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増の約束手形を反故にする。
- 関が原の合戦以降も、徳川家康から東北最強の外様大名として徹底して警戒心を持たれたが、江戸の天下普請や、江戸への米の供給を支えるなどの功績により、家康の末期には幕府の後事を託されるまでになる。
- 慶長6(1601)年:仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。
- 慶長19(1614)年:大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田幸村の攻勢を受けてたつなど大きな功をたてる。
- 家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をメキシコからイスパニア、ローマにまで派遣して海外貿易を試みているが、いずれも成果は実らなかった。
- 世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保することになり、一説には江戸中期には300万石を超えていたと言われる。
- 寛永13(1636)年5月:江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
伊達政宗の残した名言
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- 仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。(『遺訓』より)
- 気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。(『遺訓』より)
- いたずらに月日を送り、病におかされ、床の上にて死なん命の口惜しや。
- 馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である
伊達政宗の逸話
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- 諱の「政宗」は、伊達家中興の祖といわれる室町時代の9代目当主・大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別して「藤次郎政宗」と呼ばれることもある。
- 朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となったといわれる。これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったとも伝えられる。これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる。
- 「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
- 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったためやり過ごす事が出来た。実際には2種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
- 政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉領を侵略し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関が原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫したといわれる。
- 政宗は、大坂夏の陣の際に豊臣家滅亡の責任を家康や将軍家に取らせて切腹させ、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想も描いたともいわれる
- 将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りをする政宗の刀を調べると中身は木刀であったとの話が伝わっている。
- 三代将軍徳川家光が鷹狩に没頭し、下宿を頻繁に行うのに困った家臣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、家光は以後下宿を行わなくなったという。
- 遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。
- 朝早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないとの拘りがあったといわれる。
- 料理が趣味で、元々は兵糧開発のために行っていたとされるが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていたといわれる。
- 岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だったといわれる。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。
- 毎日起床後、昼、睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていたと伝わる。遺品に愛用のキセルがある。
- 酒に滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。
- 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後平城へ移ることを奨めていた。このことから、生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
- 辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
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