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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b11_anrakuzi.html#basic
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東国巡錫の折、行基は当地が霊地であることを感得し、聖観音像を彫刻して岩窟に納め、磐石を扉としたことが開山の縁起とされている。ただし異説もあり、当地の領主だった吉見兵庫介が北国に移る際、行基から授った観音像を持って行こうとしたが動かなくなったため、石櫃に入れて岩窟のなかに納めたとも言われている。その後、坂上田村麻呂が奥州征伐の際にこの地を訪れ、石扉を覗いて行基作の観音様を拝したところ、観音像は光り輝き、日神が天の岩戸から出現したごとき様相であったため、七堂伽藍を建立して岩戸山と名付けたと伝えられる。また、天慶3(940)年の平将門の乱の際、この寺は調伏を命ぜられ、百院百壇を設けて修法、効験があったと伝えられている。
また、源頼朝の弟である源範頼は、平治の乱のあと助命され、頼朝の乳母比企禅尼が住む当地を頼り、稚児僧としてこの寺に居留した。やがて、範頼がこの地方の領主となってからは吉見御所と称され、幼少の頃の報恩にと所領の半ばを寄進し、二十五間四面の大堂と、高さ三十三メートルの三重塔などを建てたといわれている。しかし、天文年間(1532〜54年)には、上杉憲政と北条氏康の松山城合戦の兵火により焼失。後に、下総国印旛郡出身の僧杲鏡が、法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復興に精進、近里の檀越を勧進して、五間四面の観音堂と現存する朱塗りの三重塔を再建した。また、寛文元(1661)年には、秀慶が七間四面の観音堂を完成。元禄年間(1688〜1703年)には仁王門力士像、宝永年間(1704〜10年)に地蔵尊、薬師、十二神将像の造立、享保年間(1716〜35年)に御拝欄干の擬宝珠荘厳、宝暦年間(1751〜63年)に宝筐印塔の建立、寛政2(1790)年には「吉見の大仏」と称される阿弥陀如来像の造立など江戸時代に大きく発展した。
本堂は、埼玉県指定文化財。八間四面。内陣の柱には極彩色が施され、欄間には左甚五郎の作と伝えられる虎の彫刻がある。
仁王門は、埼玉県指定文化財。
仁王像は、吉見町指定文化財。
三重塔は、埼玉県指定文化財。寛永年間(1624〜43年)に僧の杲鏡が建立したと伝えられている。一階には、2.4メートルの釈迦如来立像が納められている。尚、昭和35年には解体修理が行われている。
御堂の前の忠霊塔。
寛政2(1790)年鋳造の吉見の大仏様。
山号は岩殿山で、院号は光明院。
本堂欄間の虎の彫刻は、「野荒しの虎」と呼ばれている。この虎は、夜になると御堂を抜け出て田畑を荒し、村人に槍で足をつかれて血まみれで帰ったとの伝説が残っている。
第9番慈光寺、第10番正法寺とともに比企三山とも言われている。
安楽寺に隠れていた布袋様。
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