七夕

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七夕とは

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2006-07-27T00:00:00+09:00
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七夕は"しちせき"または"たなばた"と読みます。7月7日の夕方の意味と言われており、7月7日(地方によっては旧暦の7月7日)に多くの地域で星祭が行われます。五節供の1つにも数えられています。古くは棚機(たなばた)と書き、現在のたなばたとの発音はこの名残であるといわれています。

七夕行事には、星祭に関するもののほか、盆行事に関る禊(みそぎ)や農耕儀礼的な要素など地方によって様々な意味があります。中国の星祭伝説と乞巧奠(きこうでん)の行事、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)の伝承、水でけがれを払う伝承など、それらが複合して各地の七夕の習慣ができあがったと考えられています。現在では芋の葉の露で墨をすって色紙や短冊に願い事を書き、七夕竹に吊るすと願いや出会いが実現するといわれ、七月六日の宵から飾るとされています。

五節供は江戸幕府が制定した生活の節目を祝う日で、正月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽がこれにあたります。

新暦の7月7日は夏ですが、旧暦の7月7日はほとんどが立秋以降となりますので、七夕は元来秋の季語です。

棚機津女

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2006-07-27T00:00:00+09:00
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たなばたつめと読み、古事記に記されている伝承です。棚機とは機織り(はたおり)機――棚の構えのある形状から――のことを指し、その機で布を織る女性を指して棚機津女と言います。

伝承では、棚機津女は巫女とされています。棚機津女は年ごとに村の中から一人選ばれ、旧暦の7月7日に人里離れた水辺の機屋の中で、その夫たる神様をその衣を織りながら待ちます。訪れた夫神は棚機津女の村に豊穣を授け、代わりに穢れを持って立ち去ります。

足玉も 手玉もゆらに 織る機を 君が御衣に 縫いあへむかも

天の川 棚橋渡せ 織女の い渡らさむに 棚橋渡せ

星祭伝説

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星祭伝説は七夕伝説、中国では星合伝説とも呼ばれます。元々は中国の伝説で、牽牛星と織女星が年に一度だけ天の川を挟んで出会うというものです。牽牛と織女という名前が始めて文献に登場するの『詩経』国風編――春秋戦国時代頃までの詩を集めた孔子の編集――とされています。ただそこにある牽牛と織女はあくまでも星の名称としてであり、それにまつわる伝承は見られません(ここで牽牛は二十八宿の牛宿――山羊座の頭の部分辺り――のことで、現代の牽牛三星は河鼓という星座名で呼ばれていた)。漢代の『史記』天官書には牽牛為犠牲職女、天女孫也との文が見られ伝説の片鱗がうかがわれます。また、同じ漢代に編纂された『文選』「古詩十九編」には牽牛と織女は天の川の両岸にさかれて話をすることができないとの文が見られます。魏晋南北朝時代『文選』「曹植洛神賦」の中にある李善の注では、「曹植九詠注」に牽牛と織女が夫婦であること、織女と牽牛の星はそれぞれ天の川の傍らにあること、1年に1度7月7日にしか2人は出会えないことが書かれていたとあります。『荊楚歳時記』会引には、「伝玄の『擬天問』には、7月7日に牽牛と織女が天河で会う」と書かれています。そして南北朝の梁時代の『荊楚歳時記』には、これらの話がまとまって紹介されています。

夜空は天の川によって東と西にわけられていて、天の川の東には天帝の娘で織女とよばれる美しい天女が住んでいました。織女は子供の頃から毎日機織りに精を出す仕事熱心な娘でした。織女の織る布はとても美しいもので、五色に光り輝き、季節の移り変わりと共に彩りを変える不思議な布でした。織女は皆がこの布を欲しがる様を見て、それが嬉しくてまたせっせと機を織り続けるのでした。

しかし、天帝は娘の働きぶりに感心をしつつも、年頃であるにも関らず化粧もせずに一日中機織りばかりをしている織女を不憫に思うようになりました。このままではお嫁にも行けないのではないかと心配をし、そこで天の川の西に住んでいる働き者の牽牛という牛飼いの青年と結婚をさせることにしました。こうして織女と牽牛の2人の新しい生活が始まったのです。

2人は結婚してとても幸せな生活を送っていました。ところが織女は牽牛との暮らしに夢中になるばかりで、それまであれだけ熱心にしていた機織りをすっかり止めてしまったのです。天帝もはじめは新婚だからということで2人の様子を大目に見ていました。しかしいつまでもそのようなありさまが続くので、天帝はついに腹を立ててしまい、2人を引き離してしまいました。

しかし、1度引き合わせた2人を引き離すのはあまりにもかわいそうだと考えた天帝は、1年に1度、7月7日の夜にだけ2人が会う機会を与えることとしました。それ以来、自分の行いを反省した織女は年に1度の牽牛との再開をはげみに、以前のように機織りに精を出すようになりました。

ところが2人が待ち焦がれる7月7日に雨が降る場合もあります。雨が降ると天の川の水かさが増してしまい織女は岸まで渡ることができなくなります。川下には上限の月がかかっていても、月の舟人は織女を対岸に渡してはくれません。そんな2人を見かねてか、どこからともなくかささぎの群れが飛んできて天の川にその翼で橋をかけ、織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれるのだそうです。

この伝説は日本に伝えられたあと、話しがとても似ていた奄美地方に伝わる「天の羽衣」の伝説と一緒になり、現在まで語り継がれています。

牽牛星(鷲座のアルタイル)と織女星(こと座のベガ)、はくちょう座のデネブを結んだものを夏の大三角または夏の大三角形とよびます。織女星の直ぐ側にあること座の5等星2つを2人の子供とする地域もあります。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、7月7日は必ず上弦の月となることから、これを船に見立てることがあったようです。

中国やベトナムでは天の川を渡るのは織女だとされていますが、日本では牽牛だとされています。日本では古くには男性が女性のもとに通う通い婚が行われていた影響だと言われています。

日本の織姫には様々な別名があり、これを"七"に関連付けて七夕の七姫と呼ぶことがあるようです。朝顔姫、梶の葉姫、糸織姫、蜘蛛(ささがに)姫、秋去姫、薫物(たきもの)姫、百子(ももこ)姫がこれに当たるという説と、朝顔姫、梶の葉姫、糸織姫、蜘蛛(ささがに)姫、秋天(あきそら)姫、琴寄(ことより)姫、灯(ともしび)姫という説があるようです。

乞巧奠

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2006-07-27T00:00:00+09:00
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きこうでん――もしくはきっこうでん――と読み、中国古来の風習で特に女子の手芸が巧みとなることを願う行事です。中国の6世紀の書物『荊楚歳時記』によると、7月7日は牽牛と織女が逢う晩として織女を祭り、裁縫や習字などの上達を願ったそうです。この日の夕方になると女の子たちは五色の糸を金や銀、真鍮で作られた七本の針に通しました。そして庭に机や敷物を出し、その上に酒や干し肉、瓜、菓子などの供え物を並べました。この時に、蜘蛛が供えた瓜の上にあみをかければ願い事が叶うとの言い伝えがあったようです。星祭伝説の織女は、養蚕や糸、針の仕事をつかさどる星と考えられていましたので、機織りの上手な織女にあやかろうと乞巧奠の行事がうまれたとされています。

乞巧奠は次第に機織りだけでなく、日常の針仕事や芸事、文学などの上達を願う行事へと発展していき、中国では唐代玄宗皇帝の頃より盛んになりました。日本で最初に乞巧奠が行われたのは、孝謙天皇の天平勝宝7(西暦755)年とされています。伝えたのは機織りや養蚕の技術を持ち込んだ渡来人達だとの説があります。当時は貴族の間で取り入れられ、季節の野菜を供え、五色の糸を竿にかけたり針に通して機織の上達を、琴を机上に置き香を焚いて芸事の上達を願ったとされています。のちに詩歌を梶の葉に書き、硯、筆などを添え、書の上達を祈る様にもなりました。江戸時代には五色の短冊に詩歌を書き、笹竹を立てるようになります。寺子屋が普及して手習い事の上達を願う風習はその頃に生まれたようです。

七月七日、御所の庭に敷物を東西に長く敷き、朱塗りの高机を東西の敷物の端に南北二脚ずつ、全部で四脚置きます。東南と西南の机の南側には梨・桃・ささげ・大豆・熟れた瓜・茄子・薄く切ったアワビを盛った足付きの皿を並べ、北側にはお酒や青磁の壺、朱塗りの華盤など置きます。西北と東北の机の西側には香炉を置き、東側には蓮の花五本か十本を飾った朱塗りの華盤を置きます。そして、西北の机にだけ更に、金と銀の針七本ずつを刺した柏の葉を置きます。この針には七つの孔があり、五色の糸をより合わせたものを通しています。もっと昔は金と銀の針一本ずつを色紙一枚に刺していたそうです。その他、筝一張、灯明九つなどを置き、粉五合を敷物や机の上に撒きます。庭に椅子を置き、天皇が牽牛と織女の逢瀬をご覧になったそうです。針と糸を置くのは裁縫の上達を、筝を置くのは技芸の上達を願って、だそうです。他に和歌も詠んだようです。

江戸時代になると、御所の庭二間(約三・六メートル)四方に枝つきの竹(高さ二〜二・四メートル、太さ一回り十五センチ程度)を立て、この上に小縄をめぐらしました。現在、神主さんが地鎮祭の際に立てるものにそっくりですね。縄の囲いの内には敷物を敷き、天皇側の縄には五色の絹糸をかけます。御所の縁側には高机を置き、その上に針・糸・扇・笛を置きます。また、瓜を皮ごと輪切りにしたものと塩あわびを切ったものをそれぞれ七つの皿に盛って台に載せ、梶の葉・ひょうたんの葉を敷いた上に蓮の花をむしって置きます。縁側には更に、角盥(つのだらい)に水をいっぱい張って置きます。灯明を七つ灯し、懐紙を卓の上に置きます。

七夕馬

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7月6日の夕方、または7日に真菰で作る一対の馬や牛のことをさします。茄子や胡瓜などを仏前に供え、七夕の行事が終ると川に流したり屋根に乗せたり柱にしばったりすることからこの名前で呼ばれるようになりました。この日は七日盆であり、先祖の霊をこの馬にて迎えるという言い伝えから精霊馬とも呼ぶようです。お盆に茄子や胡瓜などで馬や牛を作って先祖の霊を迎える風習は日本全国にありますが、七夕馬はこれが七夕行事と習合したものと考えられています。

真菰(まこも):イネ科の多年草

七日盆:旧暦7月7日をさし、15日のお盆まで先祖の霊を迎える期間の始まりの日、とされていました。

田の神馬:七夕馬の別称。馬のたてがみを荒神苗で作り、田の神がこの馬にのって田巡りをするという伝承が残されています。

水に関する伝承

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七夕には水浴びを大切な行事とする言い伝えが各地にあります。髪を洗う、子供や牛馬に水浴びをさせる、墓掃除をする、井戸をさらうなど、水によってお盆の前に穢れや厄災を払おうという考えがあったようです。

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Copyright (C) 2006 七鍵 key@do.ai 初版:2006年07月27日 最終更新:2006年07月27日