グレゴリオ暦とは

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グレゴリオ暦とは

最終更新
2008-01-16T00:00:00+09:00
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http://www.7key.jp/data/koyomi/gregorian.html#what

グレゴリオ暦は「ぐれごりおれき」と読み、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良し、1582年に制定した暦。現行の太陽暦として、日本を含む世界各国で用いられる。単に新暦(英語:New Style、略称:N.S.)と呼ばれる場合もある。グレゴリオ暦では1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日とする。ただし、400年間に3回ほど閏年とせずに平年に戻す。

16世紀後半のローマでは、当時用いられていたユリウス暦における季節と実際の季節とのずれが目立ちはじめていた。このため、教会法刷新のために召集されたトリエント公会議(1545〜1563年)は、教皇に暦法改正の業務を委託。教皇グレゴリウス13世はこれを受け、1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、当時の代表的な科学者であった天文学者アロイシウス・リリウスや、数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれた。委員会の作業の末に完成した新しい暦は、1582年2月24日に発布され、同年10月4日(木曜日)の翌日を10月15日(金曜日)とすることを定めた。

従来用いられたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日として、平均年を365.25日としていた。しかし、実際の平均回帰年(太陽年)は約365.2422日であるため、ユリウス暦の方式では1000年ごとに約8日の誤差が生じ、比較的頻繁に補正する必要があった。これに対して、新たに定められたグレゴリオ暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに閏年をおいて366日とするところまではユリウス暦と変わらないものの、西暦紀元の年数が100で割り切れてかつ400では割り切れない年は閏年としないとのルールを設けて平均年を365.2425日とし、3000年に約1日の誤差の範囲に収めた。3000年の間には地球の軌道や自転などの変化から、異なる補正が必要と考えられるため、十分な精度があると言える。

平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦もユリウス暦で用いられていたものと同じである。つまり、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月は31日間、4月・6月・9月・11月は30日間として、2月は平年が28日間、閏年には29日間とした。

ちなみに、グレゴリオ暦で用いられる「365.2425日」との値を算出したのは、コペルニクスといわれている。ただし、主要な天文学者が各々に算出した1年の長さの平均値がとられ、結果としてコペルニクスの値に近くなったとの説もある。

日本でのグレゴリオ暦の導入

日本では、1872(明治5)年に、「太陰暦を廃して太陽暦を採用するとの布告(太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス:明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)」を出した。明治政府は発足当初より諸制度の改革に積極的ではあったが、暦の改革は比較的後回しにされていた。ただ、現行の天保暦が旧幕府により制定されたものである以上そのままにしておくわけにもいかず、陰陽頭の土御門家に編暦事務を委託することになる。明治5(1872)年11月に、権大外史塚本明毅は太陽太陰暦の置閏が一か月単位なので実際の季節に対し一年の範囲が一定でないこと、不定時法の不便などの得失を数えて、各国共通の太陽暦すなわちグレゴリオ暦の導入を建議する。この建議書は、提出から急遽一週間ほどで認められ、改暦詔書が発布されることになる。これにより「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とし、明治5年12月3日を1873(明治6)年1月1日とすることなどを定め、それまで使用されていた天保暦は旧暦ということになった。

更に、この新暦の導入は、施行まで1か月にも満たない明治5年11月9日に公布されたため、社会的な混乱をきたすことになる。既に天保暦に基づく翌年のカレンダーが印刷・販売された後の公布であり、明治政府はこれらの損失を補填するために、弘暦者には向こう8年間の暦販売権を認めることで埋め合わせをし、その後の明治16(1883)年から暦の頒布権を伊勢神宮に委託した。

この背景には、当時の新政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。旧暦のままでは、明治6年は閏月があるため13か月となり、西洋に倣い月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならなくなる。これに対し、新暦を導入することにより、閏月がなくなるために12か月分の支給で済み、更に明治5年も12月が2日しかなかったため、11か月分の給料支給で済むと考えたのである。

しかし、この布告は急ぎ過ぎたせいもあり、閏年に関する規定に不備があった。改暦を宣言した「改暦ノ布告」に「一箇年三百六十五日十二箇月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事」との一文があり、これはグレゴリオ暦ではなくユリウス暦の閏年のルールである。これに気が付いた政府は1898(明治31)年5月11日に改めて「閏年ニ関スル件(明治31年勅令第90号)」を出し、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。これによると「神武天皇即位紀元数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス、但シ紀元数ヨリ六百六十ヲ減ジテ百ヲ以テ整除シ得ベキモノノ中、更ニ四ヲ以テ其数ヲ整除シ得ザル年ヲ平年トス」とされている。これは、グレゴリオ暦導入後に初めて閏年にならない4の倍数年、つまり神武天皇紀元二五六〇(1900)年を翌々年に控えてのことであった。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月16日 最終更新:2008年01月16日