第86番札所 補陀落山志度寺

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補陀落山志度寺 - 四国霊場八十八箇所資料集での納経帳への朱印

補陀落山志度寺の基本情報

最終更新
2007-05-21T00:00:00+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s86_sidozi.html#basic
正式名称と通称
補陀洛山清浄光院志度寺(ふだらくさん しどじ)/通称:-
本尊と宗派、開基
十一面観世音菩薩 / 真言宗善通寺派 / 藤村不比等
真言
オンマカ キャロニキャ ソワカ
御姿
補陀落山志度寺 - 四国霊場八十八箇所資料集の御姿 本尊のカラーイメージ
御詠歌
唱え奉る 四国霊場 第86番 補陀落山 志度寺 の御詠歌に
いざさらば 今宵はここに 志度の寺 祈りの声を 耳に触れつつ(いざさらば こよいはここに しどのてら いのりのこえを みみにふれつつ)
所在地と電話番号
〒769-2101:香川県さぬき市志度1102(087-894-0028)
前札所と次札所
前札所:第85番札所 八栗寺(7.6km)/次札所:第87番札所 長尾寺(7.0km)
交通と駐車場
徒歩:八栗寺→大西レンガ工場→国道11号線→志度駅前→志度寺
八栗寺から徒歩7分、八栗ケーブル:八栗山上→八栗豊山口(5分)、徒歩、琴平電鉄志度行:八栗→志度(10分)、下車後徒歩(1km)
駐車場:無料(30台:境内まですぐ)
宿泊
宿坊60人(3800円)

補陀落山志度寺のその他情報

最終更新
2007-05-21T00:00:00+09:00
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歴史と謂れ

推古天皇の33年(625年)、観音菩薩の化身といわれる仏師が志度湾に漂流してきた霊木で十一面観音像を刻み、堂宇を建てたのが草創とされる。天武天皇10年(681年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」と名づけ、持統天皇76年(693年)には藤原房前が行基とともに堂宇を建立したとされる。後に弘法大師が弘仁年間にこの寺を巡錫した。室町時代には四国管領細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、その後戦乱により寺院は荒廃。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経て、寛文10年(1671年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩・松平氏により再興され、現在に至る。

堂塔

志度寺の仁王門

仁王門

この寺の本堂と仁王門は藩主松平頼重の建立で、特に仁王門は日本三大名門の一つといわれている。三つ棟木といった珍しい工法で、重要文化財にも指定されている。左右には大わらじが奉納されている。木彫りの金剛力士は、阿・吽の作とも鎌倉時代の仏師運慶の作とも言い伝えられている。また、次のような伝説が残っている。長曽我部元親が志度へ攻め入ったが仁王門の前で馬が動かなくなり、元親が仁王像を見ると像に後光がさしていた。恐れた元親は、兵に寺の建物を焼くことを禁じた。

行事

-

その他の情報

海士

謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇の時代、藤原不比等が亡き父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと3つの宝珠を船で送ったが、志度の浦で龍神に奪われた。不比等はそれをあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠を取り返したとされる。不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂を建てて「死度道場」と名づけた。後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めたといわれる。仁王門を入って左にある小堂が、この海女の墓とされる。

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年05月21日 最終更新:2007年05月21日