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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s15_kokubunzi.html#basic
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s15_kokubunzi.html#other
天平13年(741年)2月、聖武天皇は国ごとに最適の地を選んで金光明四天王護国之寺という僧寺と、法華滅罪之尼寺という寺を建立するよう命じた。いわゆる国分寺と国分尼寺の造営である。阿波は粟の国と長の国が合して阿波の国となり、国府は現在のJR国府駅附近におかれて国分寺は政治の中心から南へ1kmほどの矢野に建てられた。現在本堂のある地は、もと講堂であったとされる。当時は鎮護国家の勅願所として金堂を中心に七重塔など伽藍が建ち並び、実に壮観であったと伝えられる。ご本尊は行基菩薩による薬師如来。当初は東大寺と同じく法相宗であったが、弘法大師が留錫して真言宗になったといわれる。その後、天正年間に長宗我部の乱により伽藍は鳥瑟沙摩明王堂を除きことごとく焼失し、以降廃寺となった。寛保元年(1741年)に阿波藩の命により吼山養師和尚が堂宇を再建し、そのとき曹洞宗に改宗している。
境内に入ると、創建当時の塔の心礎がある。正面に重厚な感じの二層の本堂がある。
境内の片隅に、七重塔の心礎といわれる心礎石が置かれている。天平12年(740年)の国分寺造営勅命の前年に諸国の七重塔造営が命じられているため、天平年間の建立とされる。この心礎は環溝型という珍しい形式で、興弾寺前の田から発見されている。
本堂横の庭園は池泉観賞式の大庭園で、構造的には東側の築山泉水庭と、西側の枯山水に分かれ、二つの庭が大洞門で連なった独特の様式で造られている。また、本堂西側に組まれた高さ4.3mの立石は全国の庭園随一の巨石とされる。一般公開はされておらず、予約をすれば見ることはできるが少人数に限られる。
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弘法大師が17日間参籠して刻んだ烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)は一切の穢れを清浄にすることから不浄潔金剛とも呼ばれ、1つの願いは必ずかなえてくれると尊信されている。寺で授けるお札はお手洗にまつるとよい。眼と下半身の病に霊験があるともされる。本来は火の神で、火の力で汚れたものを浄化するといわれている。真言宗では不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王をもって五大力明王とされるが、天台宗では金剛夜叉明王の代わりに烏瑟沙摩明王を祀り五大力明王とした。禅寺などでは特に烏瑟沙摩明王を大事にしている。御真言は「オン・シュリマリママリ・マリシュシュリ・ソワカ」。
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