阿波国

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阿波国の基本情報

最終更新
2010-03-22T16:05:01+09:00
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https://www.7key.jp/data/geography/ryoseikoku/awa2.html#basic
国名(よみ / 旧かな)阿波国(あわのくに / あはのくに)
別名阿州(あしゅう / あしう)
延喜式の時代の等級上国、中国
国府の所在地と現在地名東郡(なひむかし) / 徳島県徳島市国府町府中
総社国府八幡大明神宮(徳島県徳島市国府町観音寺)
推定人口459,244人(1834年)
名物や名産品など阿波藍、阿波刻、阿波茶、鳴門若布、大蛤、鮑、鳴門鯛、阿波三盆、味噌、祖谷そば
代表的な妖怪夜行さん、阿波だぬき
現在の地名徳島県

阿波国のその他情報

最終更新
2010-03-27T16:39:52+09:00
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歴史

古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地であったため、「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に粟国に統一された。和銅6(713)年、元明天皇の命によって、地名を二字で表記するようになったため、「粟」が「阿波」に変更されたと考えられている。

平家の滅亡後、阿波の守護職は源氏の重臣佐々木氏、信濃の小笠原氏が鎌倉幕府から任じられ、室町時代には三管領家の一つである細川氏が支配することになる。その後、細川氏の被官であった三好長慶が実権を奪い、三好氏は京都にも進出するなど権勢を誇ることとなる。その後、織田信長が三好義継を滅ぼすと、三好一族である三好長治が阿波を統治することになる。しかし、長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗を強要し、支持を失う。その頃、土佐の長宗我部元親が阿波に侵入し、防戦につとめる三好勢を破り、その本拠地の勝瑞城を落とした。長宗我部元親は進撃を続け、1585年には讃岐伊予も手中にし、四国統一を成し遂げる。

天正13(1585)年、羽柴秀吉の四国平定後は蜂須賀家政が阿波に入国し、名東郡富田荘に徳島城を築いた。慶長5(1600)年、関が原の役が始る前に、家政は家督を嫡子至鎮に譲り、以後蜂須賀家は徳川方に味方して慶長19(1614)年大坂冬の陣、翌年の夏の陣を戦った。蜂須賀家は、その戦功によって阿波一国を与えられ、徳島藩は25万7000石の大藩となり、改易されることなく江戸時代を通じて阿波国徳島藩および富田藩(徳島藩支藩)の藩主として阿波を治めた。

街道

江戸時代の藩

国名延喜式吾妻鏡他郡名考・天保郷帳郡区編成現在
都道府県
阿波阿波(あは)阿波阿波(あは)阿波徳島県阿波郡 
板野(いたの)板東・板野・板西板野(いたの)板野板野郡鳴門市
名ノ東名東名東(めうとう)名東名東郡徳島市
名ノ西名西名西(めうさい)名西名西郡 
勝浦(かつら)勝浦勝浦(かつら)勝浦勝浦郡小松島市
那賀(なか)那東・那西那賀(なか)那賀那賀郡阿南市
 海部海部(かいぶ)海部海部郡 
麻殖(をゑ)麻殖・麻植麻植(をゑ)麻植麻植郡 
美馬(みま)美馬美馬(みま)美馬美馬郡 
三好(みよし)三好三好(みよし)三好三好郡 

その他の情報

四国は、弘法大師が真言宗を広めた地であり、江戸時代を通じて四国八十八箇所の巡礼が盛んに行われ、阿波国内の23か寺の札所にも多数の巡礼者が訪れた。

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Copyright (C) 2010 七鍵 key@do.ai 初版:2010年03月22日 最終更新:2010年03月27日