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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b01_sugimotodera.html#basic
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天平6(734)年に、光明皇后の御願により大臣藤原房前と行基に命じ堂宇が建立され、行基が十一面観音を安置して創建したといわれる。行基は当地を巡錫した際、柏に十一面観音と二十八部衆を感得し、この木をもって本尊を刻み二階堂観音院を創建したと伝えられている。本堂正面には、仁寿元(851)年に慈覚大師が当山に参籠して刻んだと伝わる十一面観音像、その左隣には行基作の十一面観音像、右隣には寛和2(986)年に恵心僧都が花山法皇の命によって刻まれたと伝えられる十一面観音像がそれぞれ配置されている。
『吾妻鏡』によると、文治5(1189)年11月23日の夜、堂宇が失火により焼失したが、別当浄台房が煙火の中から本尊三体を運び出し、浄台房は衣をわずかに焦がしただけと伝えられている。また、『坂東霊場記』によると、このとき観音像は自ら本堂から出て境内の杉の大木の下に避難したと伝えられ、それにより杉の本観音と呼ばれるようになったといわれている。
その後、建久2(1191)年に源頼朝がこの寺を再興したという。『吾妻鏡』には、累年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す
とある。建暦2(1212)年には源実朝も参詣したとされる。この寺の背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長がこの城に拠ったが、延元2(1337)年12月に南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺の観音堂で自害した。
鎌倉・室町時代には大火、兵火に遭い、江戸時代には無住の時期もあり、また明治時代以降にも排仏稀釈や震災によって、七堂伽藍も観音堂を除き全て倒壊。そのため、昭和48年からは浄財を得、復興が進められている。
木造十一面観音立像(慈覚大師および恵心僧都の作とされる二体は、鎌倉時代の制作と考えられており、明治32年には国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている)
本堂は神奈川県指定の文化財。延宝5(1677)年に再建された茅葺屋根。
山門は、享保10(1725)年に建立されたといわれている。
鎌倉最古の寺と呼ばれている。
仁王門の先の正面の鎌倉石で作られた石段は、磨り減り危険であるため、現在は封鎖され、その左にある女人坂から登る。
信仰心なくこの寺に馬を乗り入れると必ず落馬するため、下馬観音とも呼ばれていた。後に、建長寺開山大覚禅師が、袈裟で行基作の尊像慈眼を覆うと落馬などの利罰は止んだので、覆面観音と号したとも言われている。この覆面観音は、頼朝の時代より秘仏とされている。
御堂の後方は、三浦大輔義明の子、杉本太郎義宗が三浦の衣笠城の支城として館を築いた遺跡と言われている。
境内には五輪塔が並んでおり、斯波一族の供養塔といわれている。
境内には、「奉納十一面杉本観音」の幟が並んでいる。
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