端午の節句

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端午の節句とは

最終更新
2007-12-30T09:51:22+09:00
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端午の節句(たんごのせっく)は、5月5日に男の子の健やかな成長を祝い、祈る日本の風習。男の子のいる家庭では鯉のぼりを立て、五月人形を飾り、菖蒲湯に入るなどの風習がある。五節供の1つで、菖蒲の節句(しょうぶのせっく)とも呼ばれる。元来は旧暦の5月5日に祝われていたものだが、現在の日本ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、旧暦や月遅れの6月5日に行う地域も少いながら残っている。また、端午の節句にちなんで5月5日は、国民の祝日「こどもの日」になっている。

旧暦では午の月は5月にあたり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が「重五」や「重午」と呼ばれ、端午の節句として祝われるようになったといわれている。「端」は物のはし、つまり「始り」との意味で、元々「端午」は月の始めの午の日を指していた。

元々は中国で始った風習で、古代(3世紀頃と言われているが定かではない)支那ではこの日にショウブヨモギを門につるしたり、ヨモギで作った人形を飾ったり、ショウブ酒を飲むなどをして邪気を払い健康を祈願していた。これは、ショウブやヨモギが邪気を払う作用があると考えられていたためである。日本には、田植えが始る前に男性が戸外に出払い、早乙女と呼ばれる若い娘だけが家の中や仮小屋、神社などに閉じこもって穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)との風習があり、これが支那から伝わった端午の風習と結び付けられた。つまり、端午は元々女性の厄払いのための節句だったのである。宮中ではショウブを髪飾りにした人々が武徳殿に集い、天皇から薬玉を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣があり、奈良時代に既に宮中行事としてその記述が見られる。鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」や「勝負」と同じ読みであり、またショウブの葉が剣を形を連想させることなどから、この日に男の子はショウブを頭や身体につけたり、ショウブで作った兜で遊ぶようになり、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈る行事に変わっていった。また、江戸時代に五節句の1つである「端午の節句」に定められた。

鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前に鯉のぼりを立てるのが典型的な祝い方である。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。鯉のぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している。端午の日には「粽(ちまき)」や「柏餅(かしわもち)」を食べる風習もある。粽を食べるのは、支那戦国時代の楚の愛国詩人「屈原(くつげん)」の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)に粽を投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚の餌としたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、カシワは新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年12月30日 最終更新:2007年12月30日