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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b04_hasedera.html#basic
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伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。『吾妻鏡』にも特に記載がない。
寺伝(『相州鎌倉海光山長谷寺事実』)によれば、天平8(736)年、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。その昔(養老5:721年)、大和国初瀬の河上に、近江国三尾の山から楠の巨木が流れ着いた。徳道がその霊木を礼拝していると稽文会と稽主勲(不空羂索観音と地蔵菩薩の化身)の二人の仏師が現れ、三日三晩で二体の巨大な十一面観音像を造った。このことが文武天皇の耳に入り、藤原房前を勅使として礼拝させ、導師に行基を迎えて天平5年に開眼供養を修した。その1体(本)を本尊としたのが観音霊場として著名な大和の長谷寺であるが、行基は末木の尊像に向かい「初瀬に二体奉安すると衆生はいずれを信じるべきか迷ってしまう。いずれかの有縁の地に移ってほしい」と祈り、別の山に移して祀ったといわれる。後に洪水があり、末木の尊像は流されて行方がわからなくなった(行基自ら海中に奉じられたとの説もあり)。15年後の天平8年、鎌倉由比の沖に光を放つものが出現し、6月の大潮によって三浦半島の長井の浜に打ち上げられた。漁師たちは鯨と思って集ったところ十一面観音像だったため驚き、仮屋を建立して安置した。当時、諸国を行脚していた徳道が小田原近くの里に至った夜、老僧が霊夢に現れ、「我は汝が本願の末木の観音なり。今有縁に従って由比ヶ浜に出現せり」と告げた。夢から覚めた徳道は急ぎ鎌倉へ行き、尊像を拝して堂宇を建立、これが現在の鎌倉の長谷寺であるといわれる。『新編鎌倉志』の長谷寺の項には、「此観音大和長谷より洪水に流され、(中略)和州長谷の観音と此観音とは一木の楠にて作れり。和畑の観音は木本、此像は木末也」とある。
当寺の梵鐘には文永元(1264)年、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2(1262)年および徳治3(1308)年銘の板碑、嘉暦元(1326)年銘の懸仏などがある。
近世の地誌『新編鎌倉志』や、寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』などによると、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。康永元(1342)年には足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行い本尊を金箔で修復、明徳3(1392)年には足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立として安置した。この頃から石造五重塔や宝篋印塔、板碑などが信仰者によって造立されたといわれる。天文16(1547)年には北条氏康の寄進を受け、天正19(1591)年には徳川家康から朱印状を受ける。慶長12(1607)年に堂塔伽藍を改修し、正保2(1645)年にも酒井忠勝が堂宇を改修している。慶長12年の改修時の棟札には「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあり、また天保2年の棟札には「当寺者観音堅坐之霊場、威力自在之功験挙世皆崇信之」とあり、当時の様子がうかがわれる。
長谷寺は江戸時代の初め、慶長12(1607)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗。当時の住持玉誉春宗を中興開山としている。明治以降に単立となった。
現在の主要な堂宇は海を見晴らす高台に建てられているが、諸堂は関東大震災で倒壊後の再建である。それまで本堂は茅葺の建物であったが、大震災で大破、観音像は前方に倒れ掛かり、扉の虹梁に額を支えられていたという。
観音堂には、長谷観音と呼ばれる十一面観音立像が祀られている。奈良の長谷寺の観音像と同じ、錫杖と水瓶とを持つ長谷寺式の像容である。像高9.18mの巨像で全身を金箔で覆われ、木造の仏像としては日本有数のもの。後世の修復が多いため造立年代は定かではないが、室町時代頃の作と推定されている。昭和39(1964)年の調査により文明17(1485)年の修理銘札が見出され、延宝5(1677)年にも修理が行われたことが判っている。光背は関東大震災による被害の後取り外され、現在ある光背はアルミ製。
阿弥陀堂は観音堂の右に位置し、厄除阿弥陀と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀に数えられる阿弥陀如来像を祀る。源頼朝が造立した像という伝承があるが、実際の制作は室町時代とされる。長谷誓願寺(現亡)の旧本尊。
現在の鐘楼は昭和59年に新鋳されたもので、歌人佐々木幸綱の短歌が寄せられている。
大黒堂は観音堂の左に位置し、鎌倉江ノ島七福神の1つに数えられる大黒天像が祀られている。応永19(1412)年作の大黒天像は宝物館に移され、現在は新しい大黒天像が祀られている。
地蔵堂は、観音堂などの建つ高台へ上る参道の途中に建つ。地蔵堂には福壽地蔵が祀られ、周囲には千体の地蔵尊をもって地蔵菩薩の浄域とされる。
弁天堂には、弘法大師が刻んだとの伝承をもつ弁財天像が祀られている。江戸時代には出世弁財天の名で世に知られていた(宝物館に収蔵)。堂の奥には弁天窟があり、壁面には弁財天とその眷属である十六童子が刻出されている。
稲荷社は、かきがら稲荷とも呼ばれ、観音像の渡海縁起にまつわる伝承によると、海に漂う観音像は尊体に付着した「かきがら」の導きによって現在の地に流れ着いたとされる。
十一面観音懸仏は、重要文化財(宝物館)。
文永元(1264)年銘の梵鐘は、重要文化財(宝物館)。
経蔵は輪蔵(回転式の書架)と呼ばれる様式。中には一切経が収められており、書架を一回転させることで、一切経をすべて読誦した功徳が得られるといわれる(書架は観音縁日のみ回すことができる)。
長谷寺は文人とゆかりが深く、境内には高浜虚子の句碑、久米正雄の胸像などがある。国木田独歩や生田長江もこの寺にゆかりのある文学者。高山樗牛は明治34(1901)年にここに住み、本堂への石段の左側にはその記念碑もある。
明治33年頃には、今の客殿のあたりに慈照院と慈眼院と呼ばれる廃寺同様の建物があり、樗牛はこの寺の東側の空き地を借りて新しい家を建てることにしたが、それまでは慈眼院で暮したとされる。
長谷寺は江ノ島鎌倉七福神巡りにも入っており、大黒堂では別の朱印を頂ける。
境内には四季折々の花が見られる。
堂宇のある高台からは相模湾由比ヶ浜を一望できる。これは、鎌倉八景のうち「長谷の晩鐘」と謳われた景勝地。由比ヶ浜はもとより、三浦半島や相模湾をも一望できる。
石造釈迦如来坐像并四天王像
境内におられた布袋様
ふれ愛観音
和み地蔵
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