廣瀬大忌祭

広告

広告

廣瀬大忌祭とは

最終更新
2009-02-14T14:18:32+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/hirose_ooimi.html#what

廣瀬大忌祭とは、「ひろせおおいみのまつり」と読み、奈良県北葛城郡河合町にある廣瀬大社の例祭である。「延喜式四時祭式」上(『延喜式』巻第一)の四月祭条に「大忌祭一座 廣瀬社、七月准此」と記されているように、4月と7月の年二回、風水害を除き穀物の豊稔を祈願する祭祀である。祭神の和加宇加乃売命(若宇加乃売命:わかうかのめのみこと)は、五穀の生育を管掌する神で、龍田風神とともに風水害を除き、穀物の豊作を守護する神である。由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。相殿に櫛玉命(くしたまのみこと)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)が祀られている。「養老神祗令」は、孟夏(四月)と孟秋(七月)に廣瀬大忌祭と龍田風神祭とを並べ記しており、古来両祭は同日に行われていたとみられている。4月と7月に分けて行われる理由として、4月は田植え前に稲の成長に必要な水が梅雨の時に過不足なく降ることを願い、7月は収穫前で台風が押し寄せる時期に当り、風で稲が倒れたり水がついて田畑を荒らすことがないように願うためと考えられている。両祭を合わせて廣瀬龍田祭とも称された。「延喜四時祭式」によれば、本祭は小祀とされ、祭日である4月と7月の四日には祭使として五位以上の王(皇族)と臣が派遣された。平常は官庫に保管されている神庫の轤ニ匙を請け取り大忌祭を行い、終るとそれらを返納することが、当時の祭祀規則によって規定されていた。大忌祭の行事としては、御田植水口祭礼と水府舞(みくらのまい)があったことが記録に残されている。水府舞は、祈雨を願う神楽舞であった事が記されているが、現在には伝わっていない。しかし、御田植の水口祭礼は、現在御田植祭(砂かけ祭)と名を変え、毎年2月11日に当神社の重要な祭りとして行われている。

廣瀬大社の鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川、大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点であり、水害防護の神としての水神を祭る神社である。「延喜神名式」(『延喜式』巻第九、「延喜式神名帳」)には、大和国廣瀬郡条に「廣瀬坐和加宇加乃賣神社 名神大、月次新嘗」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛を受けると記載されている。社伝によれば、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀』天武天皇4(675)年4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月と7月に行われる広瀬大忌祭の起源とされている。永保元(1081)年には、最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。明治4年には官幣大社に列格。第二次大戦以降、廣瀬神社を改め、廣瀬大社と称するようになった。

廣瀬大忌祭の祝詞

最終更新
2009-02-14T15:09:30+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/hirose_ooimi.html#source

廣瀬神社に参向した勅使が、祭祀を営む趣を廣瀬神社の神主・祝部等に読み聞かせる宣命体形式の祝詞であり、直接祭神に奏上する祝詞ではない。

廣瀬大忌祭

廣瀬川合稱辭竟奉皇神御名を白、御膳持若宇加能賣命御名者白、此皇神前辭竟奉、皇御孫命宇豆幣帛令捧持、王・臣等爲使、稱辭竟奉、神主祝部等諸聞食宣、

宇豆幣帛者、御服明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈・御馬、御酒者瓺閉高知、瓺腹滿雙、和稲・荒稲、山住物者、毛物・毛物、大野生物者、甘菜・辛菜、青海原住物者、鰭物・鰭物、奧津藻葉・邊津藻葉、置足、皇神前白賜宣、 如此奉宇豆幣帛、安幣帛足幣帛、皇神御心平聞食、皇御孫命長御膳遠御膳、赤丹聞食、皇神御刀代、親王等・王等・臣等・天下公民取作奧都御歳者、手肱水沫畫埀、向股泥畫寄、取將作奧都御歳、八束穂皇神成幸賜者、初穂者汁、千稲・八千稲引居、如横山打積置、秋祭、皇神前白賜宣、

倭國六御縣山口坐皇神等前、皇御孫命宇豆幣帛、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、楯・戈に至奉、如此奉者、皇神等敷坐山山自口、狭久那多利下賜水、甘水受而、天下公民取作奧都御歳、悪風・荒水相賜、汝命成幸賜者、初穂者汁穎、瓺閉高知、瓺腹滿雙、如横山打積置、王等・臣等・百官人等、倭國六御県刀禰、男女、今年某月某日諸參來、皇神前宇事物頚根築拔、朝日豐逆登稱辭竟奉、神主・祝部等諸聞食宣、

廣瀬大忌祭

廣瀬ひろせ川合かはひ稱辭竟たたへごとをまつ皇神すめがみ御名みなまをさく、御膳みけもちする若宇加能賣命わかうかのめのみこと御名みなまをして、 皇神すめがみまへ辭竟ことをまつらく、皇御孫命すめみまのみこと宇豆うづ幣帛みてぐらささたしめて、 おほきみたち臣等まへつぎみたち使つかひとして、稱辭竟たたへごとをまつらくを、神主かむぬし祝部はふりべどももろもろたまへとのたまふ、

たてまつ宇豆うづ幣帛みてぐらは、御服みそ明妙あかるたへ照妙てるたへ和妙にぎたへ荒妙あらたへ五色物いついろのものたてほこ御馬みま御酒みきみか閉高へたかり、みかはら滿ならべて、 和稲にぎしね荒稲あらしねに、やまものは、にごものあらもの大野おほのはらふるものは、甘菜あまな辛菜からな青海原あをうなばらものは、 はたひろものはたもの奧津おきつ藻葉もは邊津へつ藻葉もはいたるまで、 らはしてたてまつらくと、皇神すめがみまへまをたまへとのたまふ、 如此かくたてまつ宇豆うづ幣帛みてぐらを、安幣帛やすみてぐら足幣帛たるみてぐらと、皇神すめがみ御心みこころたひらけくやすらけくきこして、 皇御孫命すめみまのみこと長御膳ながみけ遠御膳とほみけと、赤丹あかにきこし、皇神すめがみ御刀代みとしろはじめて、親王みこたちおほきみたちまへつぎみたち天下あめのした公民おほみたからとりつく奧都おきつ御歳みとしは、 手肱たなひぢ水沫みなわり、向股むかももひぢせて、取作とりつくらむ奧都おきつ御歳みとしを、八束穂やつかほ皇神すめがみさきはたまはば、 初穂はつほしるにもかひにも、千稲ちしね八千稲やちしね引居ひきすゑて、横山よこやまごとうちきて、秋祭あきのまつりたてまつらむと、皇神すめがみまへまをたまへとのたまふ、

やまとのくに六御縣むつのみあがた山口やまのくち皇神すめがみたちまへにも、皇御孫すめみまのみこと宇豆うづ幣帛みてぐらを、 明妙あかるたへ照妙てるたへ和妙にぎたへ荒妙あらたへ五色物いついろのものたてほこいたるまでたてまつる、如此かくたてまつらば、 皇神すめがみたち山山やまやまくちより、狭久那さくな多利だりくだたまみずを、 あまみづけて、天下あめのした公民おほみたからとりつくれる奧都おきつ御歳みとしを、しきかぜあらみづはせたまはず、 汝命ながみことさきはたまはば、初穂はつほしるにもかひにも、みかたかり、 みかはら滿ならべて、横山よこやまごとうちきてまつらむと、おほきみたちまへつぎみたち百官人もものつかさのひとどもやまとのくに六御県むつのみあがた刀禰とね男女をとこをみないたるまで、今年ことし某月それのつき某日それのひもろもろ參出まゐいて、皇神すめがみまへ宇事物うじもの頚根うなねきて、 朝日あさひ豐逆登とよさかのぼり稱辭竟たたへごとをまつらくを、神主かむぬし祝部はふりべどももろもろたまへとのたまふ、

広告

Copyright (C) 2009 七鍵 key@do.ai 初版:2009年02月14日 最終更新:2009年02月14日