月代

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月代とは

最終更新
2009-09-22T14:18:20+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/thought/culture/sakayaki.html#what

月代は、「さかやき(つきしろ)」と読み、日本の成人男性の髪型の一つ。前額側から頭頂部にかけての頭髪を、半月形に抜く又は剃り落とした髪型。また、その部分を指して呼ぶこともある。頂部が丸く剃られるよう、へりは曲線を描くように剃られるが、境目が直線になるよう頂部を剃る型もある。

平安時代末期に始まった風習と考えられ、男子が冠や烏帽子をかぶる際に、髪の生え際が見えないよう額を半月形に剃り上げたことが起源とされる。九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』の安元2(1176)年7月8日の条には、「自件簾中、時忠卿指出首、其鬢不正、月代太見苦、面色殊損」と記されている――平時忠の月代が見苦しかったとの意。

『太平記』巻5、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」など、鎌倉時代から室町時代も月代の風習は残り、公卿だけでなく武士の世界にも広まったと考えられている。その当時、武士は、兜を被る際に頭部が蒸れたりのぼせたりするのを防ぐことを目的として、戦場にある間のみ月代とし、それ以外の平時の折は総髪とした。戦国時代になると、戦が年中行なわれることも多く、月代が日常行われるようになった。毛抜きを頻繁に行うため、雑菌が入り易くなり、頭が腫れて兜が被れない事態まであったとされる。余談ではあるが、織田信長は家臣達に対し、月代は抜かずに剃るよう命じたといわれている。

江戸時代になると、月代は一定の風俗となった。公卿を除く武家や平民の間で行われ、元服の時に月代を剃ることが慣例となった。当時、月代を剃らなかったのは、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見などを職とするものであった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これは講武所風と呼ばれた。尚、平安時代から続いた風習であったが、明治時代の断髪令以降、一般的に行なわれなくなった。

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Copyright (C) 2009 七鍵 key@do.ai 初版:2009年09月22日 最終更新:2009年09月22日