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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b22_satakezi.html#basic
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寺記によれば、大同2(807)年、硯僧徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元(985)年に板東巡礼中の花山法皇が、随行の元密上人に聖徳太子作の十一面観音像を与え、鶴ヶ池の北の洞崎の峰に堂を建立させたとされている。花山法皇が当地を訪れた際、多くの神々が現れ、「昔、日本武尊が東征の折、この地に天神七代の霊を祀って東国の安寧を祈願した。しかし、里人はそのことを忘れ、社頭は鳥獣のすみかとなっている。ぜひとも天神のため、この地に寺院を建立してほしい」と告げたといわれている。建立当時は観音寺と呼ばれていた。
保延6(1140)年には、源義光の孫で佐竹氏の先祖となる源昌義公が、たまたま寺に詣でた折、二十尋に節が一つしかない奇竹があるのを見て、「これわが出世の瑞兆なり」と深く感動して、姓を佐竹と改め、当山を祈願寺と定めて佐竹寺と号したと伝えられている。当初この寺は、洞崎峰の観音山にあったが、その後天文12(1543)年に兵火で焼失したが、同15年に佐竹義昭が寺墓を現在の天神林に移して、佐竹城(太田城)の鬼門除けとして再建したといわれている。佐竹氏は、太田を中心に常陸一帯を支配し、後には前田・島津と並ぶ屈指の大藩といわれただけに、佐竹寺もそれに相応しく、最盛期には六支院と三ヶ坊を有し、桃山時代の先駆としての豪放雄大な建築様式であった。
関ヶ原の合戦の後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。水戸義公が除地十七石を寄せて保護したが、寺の維持にはかなりの困難がともなった。それでも、江戸時代には坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあり、延享年間(1744〜48年)には水戸藩三十三札所の第十一番札所にも指定された。明治時代に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24(1949)年まで無住の寺であった。
本堂は重要文化財(明治39年:1906年指定)。重層茅葺で、大唐破風造り。主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、正面に唐破風がつく。内陣は、五間四面の瓦敷、箔押しの来迎柱を建て、華麗な須弥檀が設けられ、聖徳太子作と伝えられる十一面観音像が安置されている。寺院には珍しく北向きにたてられている。
仁王門は、昭和16(1940)年の再建だが、安置されている仁王像は宝永年間(1704〜11年)の作とされている。門の二階には山号を記した扁額が掛けられ、その上には五本骨に日の丸絵紋のついた佐竹氏の陣扇が掲げられている。
当山の十一面観世音菩薩は、安産、厄除けの仏様として古くから信仰されている。
号は、妙福山明音院。
庫裡には、90センチメートルほどの「一節の竹」が伝存する。
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