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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b21_nichirinzi.html#basic
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この寺の創建については不詳であるが、寺伝によると役行者が開基したと伝えられ、大同2(807)年に弘法大師が十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、中興したといわれる。『八溝日輪寺旧記書類写』によれば、弘法大師が湯殿山から鹿島潟に向かおうとしていた時、八溝川の流水に香気と梵文とを感得したといわれる。大師はこの水上に霊地があると考え、里人に尋ねたところ、山中には大猛丸と呼ばれる鬼神が棲み人に害を及ぼすと教えられた。鬼神を降伏するために大師が山に入ると、雲が山を覆い風雨が激しくなったといわれる。そこで大師は虚空に向かい、般若の魔字品を書いたところ、たちまち雲は晴れ風雨は鎮まり、鬼神は退散したと言われる。大師は頂上に登り山の形を観ると、八葉の蓮華を伏せた形のように峰から8つの谷が分かれて水が八方に流れていたため、この山を八溝山と名付けたといわれている。また、狩衣を着た二神(大己貴神と事代主神)が現われたといわれ、その二神になぞらえて2体の十一面観音を刻み、日輪・月輪の二寺を建てて観音霊場としたと伝えられている。仁寿3(853)年、慈覚大師が来山して天台宗に改められ、後に源頼朝も寺領を寄進した。
室町時代(文明年間:1469〜87年)には間口16間の本堂をはじめ、雷神門・札堂・薬師堂・不動堂など諸堂が建立され隆興した。天文6(1537)年には、佐竹義篤と白河城主藤原直広が大檀那となり、堂舎を修営および梵鐘を寄進している。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられ、山伏の往来もはげしく修行の山となった。寛永20(1643)年には、火災で本堂を焼失し、仮堂を建立した。更に、万治元(1658)年に再び火災に見舞われたが、水戸義公は2回登拝して再建に尽カし、春秋の二季に野・常・陸三州に守護符の頒布を許すなどして保護した。境内には、上之坊月輪寺、中之坊尼寺があったといわれる。しかし、天保3(1832)年の水戸藩による廃仏運動によって大きな打撃を受け、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難されるほどの法難に遭遇した。その後明治13年には火災に遭い堂宇を全焼、明治以降衰退した。大正4年には仮堂が立てられ、昭和49年、には観音堂が完成した。
本堂は、五間四面。もと下之坊と呼ばれたところで、本堂は明治13年に焼失、その後鉄筋コンクリート造りで再建された。旧堂の向拝には、正徳3(1713)年の鰐口のみがかけられている。
古来より、「八溝知らずの偽坂東」、「坂東の八溝知らず」といわれ、坂東の札所の中で最大の難所である。遥拝で済ませてしまう者がいたほどの難所であるとも伝えられている。古くは山岳霊場として、修験・山伏の修行の場でもあった。冬は零下17度の寒さで雪深くなる。
旧暦の4月17日には、年一回の大祭が開かれる。
坂上田村麻呂は、日輪寺に対して「月輪寺」を建てたと伝えられているが、現在ではその跡をみることはできない。寺の近くには、坂上田村麻呂お手植えと伝わる三本杉がある。
『続日本紀』には、国司が八溝黄金神に祈願して金を発掘し、遣唐使の費用にあてたことが記されているなど、当時から金の産出で名高い山でもある。
全国湧水百選の金性水が、近くから湧き出ている。
日輪寺から更に3kmほど登ると、日本武尊が創建したとされる八溝嶺神社がある。
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