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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s17_idozi.html#basic
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s17_idozi.html#other
天武天皇の勅願道場として白鳳2年(674年)に妙照寺として開基され、八町四方の広大な寺域と末寺十二坊を有する大寺であったとされる。本尊の七仏薬師は聖徳太子の作。脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の作で、薬師仏を中央にして左右に3体、計7体祀られている。弘仁5年(815年)、弘法大師はこの地にとどまり、本尊を拝して修行し、御丈八尺余り(約190センチ)の十一面観音立像や十二神将四天王などを刻み大悲殿(六角堂)に安置した。そして、この地方が水に恵まれないことを聞き、錫杖で一夜のうちに井戸を堀り、自分の姿を水に映してそれを石に刻んだとされる。面影の井戸や井戸寺の名もこれに由来する。その後、南北朝の時代に細川頼之の戦乱で焼失する。頼之の子が再建したが天正の兵火でまたも焼失。その後、慶長年間に蜂須賀公により再興された。しかし、本堂は昭和43年にも不慮の火災で中央本尊を残して焼失してしまうが、その3年後に鉄筋コンクリート造りで再建された。
山門を入ると正面に本堂がある。
四国霊場には珍しい、朱塗りの仁王門。この武家造りの門は、阿波藩主蜂須賀重喜がいた大谷別邸から移建したもの。藩主蜂須賀重喜は秋田の佐田家から来た婿養子で、阿波藩主となったが挫折し隠居。隠居後は大谷別邸で派手に暮らしていたが、幕府の目に留まり大谷邸は取り壊しとなり、重喜は下屋敷に移り住んだ。その時に、この仁王門が井戸寺に移建された。現在のものは近年当時のものを再現して建てられたもので、左右の仁王像は四国最大級といわれている。
昔、大師自らが錫杖で掘ったとされる井戸は、現在も残っている。その折、井戸水に映った自分の姿を彫った御尊像は「日限大師」として祀られ、日を限って祈願をすれば必ず願いを叶えてくれるとされ、「日限大師」として侵攻されている。また、寺号の由来にもなっている伝説の井戸は「面影の井戸」と呼ばれ、井戸を覗き込んで水面に自分の姿が映ればその1年は無病息災、映らない場合は3年以内に不幸が訪れるといわれている。
大師堂の右手には「訶梨帝母天堂」(かりていぼてんどう)が位置する。鎌倉末期の建立とされ、子どもを守る鬼子母神が祀られているため安産祈願の信仰を集めている。妊婦はお堂にある石を持ち帰り、無事に出産を終えたら石を2つにして返すとよい。そのため、堂の前には小石が高く積まれている。国の重要文化財に指定されている。
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