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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s03_konsenzi.html#basic
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天平年間に聖武天皇の勅願で行基菩薩が本尊を刻み金光明寺と称し開基された。弘仁年間、弘法大師が巡錫した時、水不足に悩む地元の人々のために井戸を掘ると霊水が湧き出たため、感得した大師は堂宇を建立し金泉寺と改めたといわれる。亀山法皇も深く信仰し、堂塔の再興や三十三間堂などを建立、千手大悲の観世音菩薩像を安置して山号を亀光山と号し、勅願道場とした。以来、皇室との縁が深く、南北朝時代には南朝の長慶天皇が晩年をこの寺で過ごし、応永元年(1394年)8月1日、51歳で崩御されたと記録にあり、天皇の御陵が境内に祀られている。天正10年(1582年)には長曽我部元親の兵火によって大師堂を除く大半の建物を焼失。現在の建物はその後再建されたものである。
平成8年に完成したばかりの朱塗りの仁王門をくぐると、左手に鐘桜、右手に観音堂が見えてくる。
観音堂の右手に小さなお堂があり、黄金の井戸と地蔵尊が祀られている。寺名の由来となった井戸は現在もこんこんと湧き出している。この井戸をのぞき、影がはっきり映れば長寿、ぼやけていると短命との言い伝えがある。また、井戸のそばに座っているお地蔵さんは北向き地蔵とばれ、首から上の病気に霊験があるといわれる。自分の悪い所と同じ場所を撫でながら願を掛けると良いとされる。
源平の戦いのおり、源氏の大将の源義経は一ノ谷から四国に向かい、今の徳島県小松島に上陸して平家を追って讃岐の屋島に向かった。その途中この寺に立ち寄り休憩したおり、弁慶に境内にあった大きい石を持ち上げさせ、その人並み外れた力を自軍の兵に示して士気を鼓舞したと言われる。その『弁慶の力石』は現在も残っており、境内西隣にある庭園の横に置かれている。
金泉寺奥之院。弘仁7年(816年)に弘法大師がこの地に来錫し、霊地と感得し一宇を建立した。大師自ら不動明王の座像を刻み安置したといわれる。本尊不動明王の坐像は珍しく、日本全国に三体しか存在しない。納経書は四国唯一の刷毛喜梵字で書かれ、全国的にも非常に珍しい。
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最盛期の寺領を知る手がかりとして、金泉寺東門や南門などが残っている。
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