貞享暦とは

広告

広告

貞享暦とは

最終更新
2008-01-16T00:00:00+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/koyomi/zyoukyoureki.html#what

貞享暦は「じょうきょうれき」と読み、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法。初めて日本人の手によって編纂された和暦である。渋川春海の手によって完成され、貞享元(1684)年に採用が決定、翌貞享2(1685)年から使用され、70年間使用された後に、宝暦5(1755)年に宝暦暦に改暦された。貞享暦は、1太陽年を365.241696日、平均朔望月を29.530590日としている。

幕府の属僚であった渋川春海は、最初、支那の授時暦を導入しようとした。導入に当り、当時使われていた宣明暦と授時暦、明で授時暦を修正した大統暦の3暦法で日食と月食を予測し、その精度を比べた。この結果、日食の予測が的中したのは宣明暦だけとなり、授時暦と大統暦の不正確さが強調されてしまう。そこで、春海は失敗の原因を探求、西洋天文学の影響を受けた支那の学術書『天経或問』などから、授時暦実施時(1281年)からの太陽の位置の変化が原因であると突き止める。それに加え、自ら観測して求めた日本と支那との里差(経度差)を加味して日本独自の暦法を完成させ、大和暦(やまとれき)と命名した。

当時使われていた宣明暦は長く使われ過ぎて誤差が蓄積し、実際の天行よりも2日ほど先行していたため、朝廷も改暦の必要性にせまられていた。そのため、当時明で使われていた大統暦に改暦する予定であったが、渋川春海が強く採用を願い出た大和暦を採用することとし、当時の元号から「貞享暦」と命名した。渋川春海はこの功により、新設の幕府天文方に任命された。これは、暦法の管理が朝廷から幕府に移った瞬間でもあった。

広告

Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月16日 最終更新:2008年01月16日