宝暦暦とは

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宝暦暦とは

最終更新
2008-01-16T00:00:00+09:00
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宝暦暦は「ほうりゃくれき」と読み、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法の和暦。正式名称は、「宝暦甲戌元暦(ほうりゃくこうじゅつげんれき)」。宝暦5(1755)年に貞享暦から改暦され、43年間使用された後の寛政10(1798)年に寛政暦に改暦された。1太陽年を365.241542日、平均朔望月を29.530590日としている。

西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいとの理由から、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が改暦を進めたといわれる。当時、吉宗の諮問に預かった渋川敬尹(右門)・西川正休・中根元圭・渋川則休(六蔵)らは、それぞれ貞享暦と太陽の位置に狂いがない旨を回答したが、それでも吉宗は改暦を諦めなかった。そして半ば無理やり、改暦の準備が始められることになる。

当時、春海以来の幕府天文方の有力な名家である渋川家が相次ぐ代替りで実力が低迷していた上、火災で多くの暦学書や観測器を消失していた。その上、渋川や西川ら実務方自身が改暦の必要性を認めておらず、将軍のトップダウンに基づいた朝廷との交渉に対して何ら合理的な説得材料を持たなかった。そこを朝廷側の陰陽頭・土御門家につけ込まれることになる。代々の家業を幕府天文方に奪われていた土御門(安倍)泰邦は、幕府主導の改暦に反対し続ける。そして吉宗の死後、跡を継いだ将軍・徳川家重は、父の遺志を実現することにのみとらわれて土御門家主導下の改暦を認めてしまう。この結果、貞享暦を僅かに改めただけで、西洋天文学のような当時最新の知識がほとんど活かされていない宝暦暦が完成、採用されることになる。

当然、完成した暦法は貞享暦よりも劣ったものであった。宝暦13年9月1日(グレゴリオ暦1763年10月7日)の日食が、麻田剛立を始めとする薩摩の磯永周英、土佐の川谷致真、京都の西村遠里・曽我部容所、江戸の千葉歳胤、仙台の戸板保佑・大塚頼充・高橋通三ら多くの天文家により暦に載っていないことが指摘されるなど、不具合が多かった。このため、幕府は明和元(1764)年に佐々木文次郎(吉田四郎三郎)を天文方に任命して補暦御用を命じ、明和8(1771)年から修正された修正宝暦暦が使われることになる。しかし、これも不十分な観測に基づいて冬至の時刻を修正し、太陽年に貞享暦と旧宝暦暦の中間値(365.241626日)を採るなど一時しのぎの感が否めない。しかし、この失敗から日々の天行を観測するため、江戸牛込に常設の幕府天文台が作られ、更に、朝廷側の天文家・土御門家への幕府の発言力も増大する結果となった。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月16日 最終更新:2008年01月16日