元嘉暦とは

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元嘉暦とは

最終更新
2008-01-16T00:00:00+09:00
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https://www.7key.jp/data/koyomi/genkareki.html#what

元嘉暦は「げんかれき」と読み、かつて支那や日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法。支那・南北朝時代の宋の天文学者、何承天が編纂した暦法。19年に7閏月を置き、1太陽年を「365 * (75 / 304)」日(≒365.2467日)、1朔望月を「29 * (399 / 752)」日(≒29.530585日)としている。また、元嘉暦では各月を決定する際に、正月中気の「雨水」を基準としている。雨水を先ず決定し、それに単純に暦法上の1太陽年の24分の1ずつ加算していくことによって二十四節気を割り当て、各月を決定するのである。

元嘉暦の誕生

支那では南朝の宋・済・梁の諸王朝で、元嘉二十二年(445年)から天監八年(509年)までの65年間用いられた。何承天は、それまで用いられていた景初暦の冬至が後漢四分暦の観測値に従っていたため、実際の冬至より3日もずれいていることを指摘し、天体観測のやり直しを行って元嘉暦を作成したとされる。月の満ち欠けの速度は一定ではないが、元嘉暦は計算上これを一定であると仮定している。一度正月の朔を決めてそれに暦法上の1朔望月ずつ加えたものを次の月の朔とし、その朔を含む日を月初の1日としている。このため、実際の暦と月の満ち欠けには多少の差異があったとされる。これには何承天も気付いており、朔日の決定に月の遅速を考慮した定朔法を用いようとしたが、これには時の政権の反対により採用されなかったという。そのため、前代の暦法の各係数をより正確に改めるに止まった。

日本への渡来

日本には、百済を通じて6世紀頃に伝えられたといわれている。当時は、百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられている。『日本書紀』によると、欽明天皇14(553)年に百済に対し暦博士の来朝を要請して翌年2月に叶えられたとされる。この頃、百済で施行されていた暦法は元嘉暦であったため、この時に伝来した暦も元嘉暦ではないかと考えられている。また、推古天皇10(602)年に百済から学僧・観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らが観勒の下で勉強をしたともある。また、平安時代の『政事要略』には、推古天皇12(604)年に初めて日本人の手によって暦の頒布を行ったとの記載がある。

『日本書紀』には、持統天皇4(690)年の条の「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とある。これは、2年後の持統天皇6(692)年から実施され、支那から輸入した新しい暦・儀鳳暦を試用するために元嘉暦との並用を始め、その後の文武天皇元(697)年からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用したことが伺える。ただし、平朔の元嘉暦と定朔の儀鳳暦との併用は困難であり、最初の5年間は元嘉暦を採用し、その後儀鳳暦を用いるようになったとの解釈もある(根本元圭:皇和通暦)。

2003年2月26日飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見された。後の検証の結果、これが持統天皇三(689)年三月と四月のものであることが分かった(奈良文化財研究所の発表)。元嘉暦による暦の実物は、支那にも残されていない。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月16日 最終更新:2008年01月16日