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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b24_rakuhouzi.html#basic
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寺伝によれば、用命天皇の御代(586)年に支那の梁出身の帰化僧、法輪独守居士によって開創されたといわれている。居士が観音の御名を唱えると、虚空から「善哉」という声が聞こえたため、山号を天彦山としたと伝わる。推古天皇の御悩平癒を祈って効験あり、勅願寺になったとされる。本尊の延命観世音は、法輪独守居士と共に渡来して当山に安置され、その後弘仁年間(810〜823年)に修理されたと伝えられている。また、光明皇后は、聖武天皇と共に自身の安産祈願のため、法華経一巻を書写して当山に奉納したといわれる。その功験があって安産となり、光明皇后は三重塔を寄進した。それ以来皇室の安産子育の祈願所ともなり、昭和34年11月の浩宮御出産のときは、住職が随員と共に宮中へ参内し、お守りを奉呈している。
弘仁12(821)年、常陸に大旱魃があった際、嵯峨天皇は法華経を書写して当山の観音様に降雨を祈ったところ、3日に亘って雨が降ったという。雨乞いに霊験があったことから嵯峨天皇からの勅命により、「天彦山」の山号を「雨引山」に改めたといわれる。
建長4(1252)年、嵯峨天皇の皇子宗尊親王が、本堂や三重塔、仁王門、鐘楼堂などの諸堂を建立、仏師康慶に命じて御前立観音像を彫刻して奉納した。建武3(1336)年、足利尊氏は当山に寺領三百五十貫文を寄進して祈願所に指定したが、応永3(1396)年に兵火で多くの堂宇を失った。その時に、当山守護のマタラ神が住職の吽永を励まし、七日七夜で再建させて寺勢をとり戻した話が伝わっており、毎年四月にはマタラ神祭が行われる。
慶長9(1604)年、徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与え、徳川幕府の安泰とその開運を祈念した。明暦の頃(1655〜1657年)、紀伊国屋文左衛門が東海道往復の交通安全と商売繁昌を祈願し、心願成就してより、当時、ご利益で雨の降るごとく金運を授かると伝えられるようになった。三度の火災に遭いながらも、そのたびに復興し、寛永7(1630)年には十方檀門十二銭十万講をつくり、当時改修したのが現在の本堂だといわれている。
本堂は、茨城県指定の文化財。宝永7(1710)年の建築で、入母屋造り、本瓦葦きの大伽藍。本堂四面の彫刻は左甚五郎の相弟子無関堂円哲の作と伝えられる。平成5年に建て替えられた。
仁王門は、茨城県指定の文化財。享保年間(1716〜36年)再建。重層入母屋造りの桜門。建物の四面には、鷲鷺鷹鶴などの鳥類の彫刻が壁面を飾っている。
多宝塔(附棟札1枚)は、茨城県指定の文化財。江戸時代末期の建築で、本堂の傍らに位置する。唐様重層の宝形。
薬医門は、室町時代に建立された黒門。真壁城の大手門を寄進されたものといわれ、門柱には刀痕が残る。
鐘楼堂は、文政13年の再建。元は宗尊親王の御願により建長6(1254)年に建立されたもの。この鐘の音は、詩人横瀬夜雨をして「山のうえなる寺なれば 猿や鐘にたわむるる」と詠わしめた名鐘。
子安地蔵堂。無関堂円哲が享保2(1717)年に彫った像で、子供の夜泣きと虫切りの守護尊である。堂宇は、享保年間に徳川吉宗の台命によって造建された。
東照山王社殿(附棟札2枚)は、茨城県指定の文化財。
木造観世音菩薩立像は、国の重要文化財。本堂に安置され、八臂の十一面観音との我が国でも他にはあまりみられない珍しい姿をしており、延命観音と呼ばれている。像高156センチメートル。関東の木彫仏のなかでも古く、平安時代中期頃の作と考えられている。また、前立の如意輪観世音は鎌倉時代の作で、脇立の不動明王と共に重要文化財となっている。
応永3(1396)年の火災のおり、本尊みずからこの木に難を逃れたと伝わる「宿かり椎」、法輪独守居士が龍に乗って昇天した「龍杉」、観音の袖からしたたり落ちたと伝えられる「御休み沢の霊泉」など二木一水の霊異が語られている。
境内は桜の開花の頃、「関東の吉野」として訪れる人が多い。
絹本著色十一面観音画像、絹本著色愛染明王画像、絹本著色弁財天画像は、茨城県指定の文化財(絵画)。
木造不動明王立像は、茨城県指定の文化財(彫刻)。
五鈷杵は、茨城県指定の文化財(工芸品)。
大般若経は、茨城県指定の文化財(書跡)。
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