第23番札所 佐白山観世音寺

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佐白山観世音寺の基本情報

最終更新
2008-12-28T00:00:00+09:00
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http://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b23_kanzeonzi.html#basic
正式名称と通称
佐白山 観世音寺(さしろさん かんぜおんじ) 通称:佐白観音/正福寺(十一面観世音菩薩
本尊と宗派、開基と開基年
千手観世音 / 普門宗  / 粒浦氏白雉2(651)年
真言
おん ばざら たらま きりく
御詠歌
ゆめのよに ねむりもさむる さしろさん たえなるのりや ひゞくまつかぜ
所在地と電話番号
〒309-1611:茨城県笠間市笠間1056-1(0296-72-1332)
位置
緯度:36度23分10.738秒(36.386316)、経度:140度15分34.556秒(140.259599)
納経所
夏:8時〜17時、冬:9時〜16時
前札所と次札所
前札所:第22番札所 佐竹寺 / 次札所:第24番札所 楽法寺
交通と駐車場
最寄駅はJR笠間駅。3km。
駐車場:大型30台、普通車100台
拝観料
-

佐白山観世音寺のその他情報

最終更新
2009-12-23T13:23:02+09:00
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歴史と謂れ

縁起によると、孝徳天皇の白雉2(651)年に、猟師の粒浦某が開基したとされる。粒浦氏は、狩に出る前に鏡に自分の姿を映しその日の猟を占っていた。ある日、いつものように鏡を観ると、白馬・白鹿・白雉が霊木を守護している姿が映し出された。急ぎ山に入ると白髪の老翁が現れ、粒浦氏は鏡と同じ場所に導かれた。そこで粒浦氏は発心して猟を止め、霊木の近くに草庵を建てたといわれる。それから七年後、一人の仏師が草庵を訪れたので、粒浦氏は仏師に霊木で千手観音を彫るよう依頼した。十七日間で尊像は完成し、完成と同時に仏師は毘沙門天と化し、光を放って天に昇っていったといわれる。粒浦氏はその後堂宇を建立して、三白山と号した。やがて、孝徳天皇の勅願寺となって正福寺と呼ばれるようになり、鎌倉時代初期までには関東における有数な霊場になっていた。

その後、近隣の徳蔵寺との寺領争いがきっかけとなり、元久2(1205)年、宇都宮頼網の命を受けた藤原時朝が正福寺を襲い、伽藍を破却してここに居城を築こうとした。僧徒は抵抗をしたが破れ、建保2(1214)年に時朝は城を築造し、笠間氏を名乗るようになった。しかし、時朝は戦没した僧侶の亡霊に悩まされるようになり、しばしば危難に遭ったため、やがて観世音に助命を祈願するようになったといわれる。時朝は忠円阿闍梨を招いて笠間城内に観音堂を再建した。その際、宝勝、秀林、坐禅、松本、閼伽井、桜本の六坊を建立し、この頃から「身代り観音」と呼ばれるようになったといわれている。なお、その際に山号を現在の佐白山に改めた。これは、幕府に無断で兵を動かして築城したことによって咎められたが、観音の霊験により救われたことから、「佐(たす)く」の文字を使ったといわれている。

戦国時代末期、綱家のとき笠間氏が滅亡すると、正福寺も衰退した。天正18(1590)年、宥明上人によって本尊が一坊舎に移され、勝福寺と改められたが、江戸時代に入り貞享3(1686)年には再び正福寺と呼ばれるようになった。元禄元(1688)年には伽藍の修理が行われ、同十年に落成した。この間城主は、蒲原、松平(松井)、小笠原、松平(戸田)、永井、浅野、井上、本荘、井上と交代し、延享4(1747)年に牧野貞通が八万石で入封して明治に入るが、いずれの城主も観世音への信仰があつかったといわれる。明治時代の廃仏毀釈で正福寺は山上から姿を消すこととなり、本尊と仁王像は近くの玄勝院に難を避けられた。昭和5(1930)年、山麓公園の傍らに間口五間の仮本堂が建てられ、昭和59年3月になって観世音寺と改称した。

堂塔

観世音寺の本堂

観世音寺の鐘楼

行事

その他の情報

本尊千手観音は、鎌倉時代初期の寄木造で、県の文化財に指定されている。

佐白山頂の観世音

観世音寺への参道

観世音寺の境内

観世音寺の境内

観世音寺の近くの神社

観世音寺の境内

観世音寺の父の桜

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Copyright (C) 2008-2009 七鍵 key@do.ai 初版:2008年12月28日 最終更新:2009年12月23日