パレスチナ
パレスチナの基本情報
- 最終更新
- 2007-04-12T00:00:00+09:00
- この記事のURI参照
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- 国・地域名(ISO 3166-1による英語名)
- パレスチナ【Palestinian Territory, Occupied】。公式の英語表記は、Palestine Liberation Organization。正式名はパレスチナ暫定自治政府(PA)【Palestinian Interim Self-Government Authority】
- 首都
- (ラマッラ(西岸地区))
- 国旗
- -
- 人種
- アラブ人
- 言語
- アラビア語(公用語)
- 宗教
- イスラム教(97%)、キリスト教(3%)
- 通貨
- 新シェケル:New Israeli Shekel(ILS)、ヨルダン・ディナール:Jordanian Dinar(JOD)
- 3文字国名コード/2文字国名コード/数字国名コード
- PSE/PS/275
- 人口/面積
- 3,636,195人/6,220平方キロメートル(西岸地区:5860km2/ガザ地区:360km2)
- 国歌/国花/国鳥
- 祖国/-/-
- 漢字による表記
- -
- 時間帯
- -
- ccTLD
- .PS
- 国際電話番号
- -
パレスチナのその他情報
- 最終更新
- 2007-04-12T00:00:00+09:00
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パレスチナの地形
西アジア・中東に位置し、地中海東岸の歴史的シリア南部にあたる地域。近代的な意味でパレスチナと呼ばれる地域は、現在イスラエルが排他的に領有している地域に加え、パレスチナ暫定自治区とされているヨルダン川西岸地区に地中海に面するガザ地区を加えた地域に相当するが、現在の日本語の用例上では、パレスチナ自治政府が管理するパレスチナ自治区の地域を限定して指す場合もある。西岸地区の中央には南北に丘陵が延びている。
パレスチナの気候
西岸地区の西斜面とガザ地区は地中海性気候。冬に降水がある。西岸地区の東斜面と南部では砂漠気候。
パレスチナの経済
西岸地区では柑橘類やオリーブなどの栽培と牧畜が行われるが、条件のよい土地と水源をイスラエル人入植者に占拠されているため生産量は少い。ガザ地区では柑橘類や野菜の栽培と漁業が行われる。イスラエルの占領政策と破壊行為のため、商工業は発展していない。
主要貿易品目
輸出は非金属鉱物製品、野菜・果実、家具など。輸入は石油・石油製品、穀物、非金属鉱物製品など。
主要貿易相手国
イスラエルが60%。
パレスチナの歴史
- 紀元前10世紀:イスラエル王国が建設され、地域の中心都市としてエルサレムが建設される。
- 7世紀:イスラム帝国の支配下に入り、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間で帰属がしばしば変わることとなる。
- 11世紀:ヨーロッパから十字軍が到来し、エルサレム王国が建国される。
- 12世紀末:アイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝の支配下に入る。
- 1571年以降:エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの新しい支配者となる。
- 1918年:(第一次世界大戦後)以降、イギリスの委任統治下に入る。
- 1947年:国連総会でパレスチナ分割決議(決議181)採択。
- 1948年:ユダヤ人はイスラエルの建国を勝ち取る。
- 1950年:トランス・ヨルダンは東エルサレムを含む西岸を併合、国名をヨルダンに変更。
- 1964年:パレスチナ解放機構(PLO)結成。
- 1967年:第三次中東戦争によりイスラエルが西岸・ガザを占領。
- 1969年:PLO新議長にヤセール・アラファトを選出。
- 1987年:西岸・ガザでパレスチナ住民による蜂起(インティファーダ)勃発。
- 1988年:パレスチナ国家樹立宣言発表。ジュネーブでの国連総会においてアラファト議長、イスラエルの生存権承認、テロ放棄を表明。
- 1991年10月:マドリード中東和平会議。
- 1993年9月:暫定自治拡大に関する原則宣言(オスロ合意)署名。
- 1994年5月:「カイロ協定」署名、ガザ・ジェリコ暫定自治開始。
- 1994年7月:アラファトPLO議長がガザへ帰還。
- 1995年9月:暫定自治拡大合意(オスロII)に署名、パレスチナ暫定自治政府設立。
- 1997年1月:ヘブロン合意。
- 1998年10月:ワイ・リバー合意。
- 1999年9月:シャルム・エル・シェイク合意。
- 2000年7月:キャンプ・ディビット首脳会談。
- 2000年9月:イスラエル・パレスチナ間の衝突発生(第二次インティファーダ)、交渉中断。
- 2003年4月:カルテット(米、EU、国連、露)、「ロードマップ」発表。
- 2004年11月:アラファト議長逝去。アッバースPLO事務局長が議長に就任。
- 2005年1月:アッバース議長、自治政府長官(現在の呼称は大統領)選挙において大勝。長官に就任。
- 2005年9月:イスラエル、ガザ地区から撤退。
- 2006年1月:パレスチナ立法評議会選挙で、ハマスが過半数の議席を獲得。
- 2006年3月:ハマス主導の自治政府内閣成立。
パレスチナの文化
- パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうちヨルダンに接するヨルダン川西岸地区とエジプトに接するガザ地区からなるパレスチナ人の自治地区。その行政は、パレスチナ解放機構が母体となって設立されたパレスチナ自治政府が行う。ただし、パレスチナの最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナ解放機構との間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。
- パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の1947年に行われた国連決議181号(パレスチナ分割決議)が定めた、パレスチナをユダヤ人、アラブ人、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンとエジプトが第一次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、1964年にエジプトのナーセル大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、全パレスチナにムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、1980年代後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動(インティファーダ)の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。こうしてイスラエルと解放機構の直接交渉の末、1993年のオスロ合意、パレスチナ暫定自治協定に基づいてパレスチナ暫定自治区が設立された。
- イスラム諸国会議機構加盟国。
- アラブ連盟加盟国。
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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年03月05日 最終更新:2007年04月12日