ひな祭り

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ひな祭りとは

最終更新
2007-12-02T15:04:57+09:00
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雛祭りとは「ひなまつり」と読み、女の子のすこやかな成長を祈る年中行事。3月3日には雛人形を飾り、白酒、菱餅、ハマグリのお吸い物などで祝うのが一般的。

古代支那には3月の最初の巳の日に川に入って穢れを清める上巳節(じょうしせつ)との行事があり、これが日本に伝わり、室町時代の貴族の女の子の人形遊び「ひない祭り」が合わさって現在のひな祭りの原型ができていったと考えられている。現在でも一部の地域に残る「流し雛」の風習はこの由来に倣い、子供の穢れを雛人形に移して川や海に流すものである。次第に、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の重要な家財の1つに数えられていき、そのため自然と華美になっていった。やがて、江戸時代になるとひな祭りの風習は庶民の間にも浸透し、この頃には雛壇に雛人形を置いてモモの花を飾るなど、現在のひな祭りに近い形となっていった。桃の木は、支那で悪魔を打ち払う神聖な木と考えられていたため、また花が咲く季節も重なることからひな祭りに飾られるようになったといわれている。その後人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られ、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた豪勢なものだった。享保年間には人々の消費を規制するため一時的に大型の雛人形が幕府によって規制されたが、この規制を逆手にとって、「芥子雛」とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた雛人形が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな衣装を正確に再現したものがあらわれ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは二人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなってゆく。

日本では和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6(1873)年1月1日の改暦以後は新暦の3月3日に行なうのが一般的。

雛人形

雛人形は、宮中の天上人の装束(平安装束)を模して造られる。親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后を表し、官女(三人官女)は宮中に仕える女官を表す。五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人で、それぞれ「太鼓」「大皮」「小鼓」「笛」「謡」。随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士でもある。仕丁は従者を表し、通常3人1組とされる。

ちなみに、関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置が逆になっている。唐や日本では古来「左」が上の位であったため、明治天皇の時代までは帝が左に立った。しかし明治の文明開化で洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に右に立った。それが以降から皇室の伝統となり、近代になってからは昭和天皇は常に右に立ち香淳皇后が左に並んだ。それを真似て関東では男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなったといわれる。ただし京都では旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とし、どちらでも構わないとしている。

その他

ひなの語源

「ひな」の語源は、古代「比々奈(ひいな)」と呼んでいた人形(ひとがた)のこと。

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年12月02日 最終更新:2007年12月02日