安芸国

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安芸国の基本情報

最終更新
2010-03-22T16:05:01+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/geography/ryoseikoku/aki.html#basic
国名(よみ / 旧かな)安芸国(あきのくに / あきのくに)
別名芸州(げいしゅう / げいしう)
延喜式の時代の等級上国、遠国
国府の所在地と現在地安芸郡(あき) / 広島県安芸郡府中町
総社多家神社
推定人口578,516人(1834年)
名物や名産品など山葵、吊し柿、麻、蜜蜂、牡蠣、海苔、塩、和牛、馬、三好奉書、宮島杓子
代表的な妖怪ばたばた
現在の地名現在の広島県の西部にあたる。

安芸国のその他情報

最終更新
2010-03-22T20:04:50+09:00
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https://www.7key.jp/data/geography/ryoseikoku/aki.html#other

歴史

応仁の乱の頃、この地域では武田氏と安芸に侵攻して来た周防の大内氏の間で抗争が続いていた。その後、出雲から尼子氏が侵攻、安芸の支配権をめぐり大内氏と対立することになる。こうした中、大内氏の国人衆である毛利氏は12代元就の時に、次男元春を吉川氏へ、三男隆景を小早川氏へ養子に送り、両氏と同盟関係を強めた。その後、元就は陶晴賢を厳島で破り、尼子氏を滅ぼして勢力を拡大してゆき、元就が75歳で没したときには、毛利氏の所領は中国10か国に及んでいた。毛利氏は14代輝元のときに居城を高田郡郡山城から広島城に移している。

関が原の役で東軍に敗れ、毛利氏は所領を周防と長門の2国とされ、安芸には福島正則が入国した。しかし元和5(1619)年、福島氏は広島城無断修築の罪を問われて改易となる。後に紀伊から浅野長政の次子長晟が42万6000石で入封し、以後安芸は浅野家の支配で幕末を迎えることになる。

街道

江戸時代の藩

国名延喜式吾妻鏡他郡名考・天保郷帳郡区編成現在
都道府県
安芸沙田(さた)沙田豊田(とよた)豊田広島県豊田郡三原市
沼田(ぬた)豊田賀茂郡竹原市・東広島市・呉市
賀茂(かも)加茂賀茂(かも)賀茂
山縣(やまかた)山縣山縣(やまがた)山縣山県郡 
高田(たかた)高田高田(たかた)高田高田郡広島市
高宮(たかみや)
安藝(あき)安南・安藝・安北・高宮安藝(あき)安藝安芸郡呉市・広島市
高宮(たかみや)・沼田(ぬまた)高宮・沼田安佐郡広島市
佐伯(さへき)佐東・沼田・佐西・佐伯佐伯(さへき)佐伯佐伯郡広島市・大竹市

その他の情報

安芸は古くは阿岐と書いたといわれ、『古事記』に、阿岐国と記載されている。

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Copyright (C) 2010 七鍵 key@do.ai 初版:2010年03月22日 最終更新:2010年03月22日