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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b30_kouzouzi.html#basic
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b30_kouzouzi.html#other
用明天皇の御代(585〜587年)、この地で徳儀上人が観音の宝号を一日に数千遍唱える修行を行っていた。ある日、激しく雷鳴が轟き、里民は恐れをなしたが上人はこれを妙緑として一人山中に籠った。やがて、一人の老翁が現われ、「当山に草舎を結び、永く国土を守護し、衆生済度のため観音飛来し給えり」と阿薩婆の古木を指さして告げると、老翁は忽然と消えてしまった。上人がその梢をみると、そこに四寸ほどの観音像が光り輝いていたので、里民と共に堂宇を建立して祀ったと言われている。
矢那郷の猪長官は、四十歳になっても子供ができないため、当寺に百日間籠って祈願をしたところ、一女を授けられた。長官は大いに喜び、子与観と名づけた。子与観は優しい娘に成長したが、器量が良くなかったために二十歳を過ぎても良縁に恵まれなかった。そこで再び当寺に祈願すると、「鹿島へ行きて日天を拝せよ」とのお告げがあり、そのとおりにして結婚、産れた男子が後の藤原鎌足だといわれる。この因縁により、白雉年間(650〜654年)に鎌足は、七間四面の本堂、五間四面の阿弥陀堂、三層の塔、輪蔵、鐘楼、仁王堂を建立して報謝し奉り、永代の寺領にしたといわれている。後に行基が巡錫し、一丈あまりの観音像を作り、徳義上人が感得した尊像を頭部に納めたとされている。貞観年間(859〜77年)には、慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めたといわれている。
後に焼失し、再び建てられたのが現在の御堂で、室町時代の建物だが、大正の大震災で上層の屋根が崩れ、仮普請のままとなっている。
高蔵寺の本堂は、高床式の特異な建物である。大永六(1526)年に藤原時重が建立。重層入母屋造りで、縦、横、高さがそれぞれ約20m、床の高さは1.8m、床をささえる柱の数が88本。床下の柱には古代文字が彫刻されている。また、それぞれ柱には、筏を組むに要する穿孔があるため、海上を流してきたものではないかと推察され、用材は出羽国から来たものだとの説もある。床下を人が立って歩くことができ、戦時中には軍馬の厩舎に利用されたと言われている。享保年間(1716〜36年)に大改修された。
縁起に因み、夫婦和合、子授けの守護神として信仰が篤い。
本堂は、一本の大木から造ったため柱に大小があるとされ、造り終りのころには「木足らず」となり、これが木更津の地名の由来ともいわれている。
『郡誌』によれば、この地に阿娑婆(真言宗の大日如来の金胎と観世音を表現したもの)という大木があった。その枝葉が繁茂しすぎて日影となり、五穀が実らず大いに因っていたところ、夢告があり、この樹を伐って本堂が建てられたとも言われている。
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