礼 - 武士道
礼とは
- 最終更新
- 2007-04-23T00:00:00+09:00
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武士道は、人が人として行うべき道徳を単に内面の精神のみに閉じ込めておくのではなく、行動の美学、型としての「礼」を作り上げてきた。その典型は切腹という儀式であり、それらの型は言葉使いから立ち振る舞いまで厳格に守られた。「礼」の根本は「仁」と「義」とされる。つまり、本心良心に宿る根本の徳の「仁」と、そこから生まれ出た人としての正しい行いの「義」を型にしたのが「礼」である。言わば「礼」の本質は、「義」や「仁」など他の徳目を目に見えるかたちで表現したものであり、他の徳目と相互して存在するものである。従って、品性の良さを損なわぬために「礼」が実践されるのであれば、また日常の挨拶ですら相手を思いやる心がなければそれは単なる所作であり、「礼」とは言えずかえって「失礼」となる。目上の人に対しては長幼の礼をもち、上位の人に対しては君臣の礼をもち、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することが「礼」であり、「礼」の最高の姿は愛に近づく。また、「礼」は物事の道理に正当な敬意を払うことでもあり、従って社会的な地位にも正当な敬意を払うことを意味する。
礼の定義
- 江戸中期の儒学者太宰春台は、「仁は目で見え難いが、義は行動となり、礼は形となって表れ目に見える。従って、礼を厳しく躾ければ、その過程でなぜそうすべきか解り、悪い心を持った人間でもその行儀作法と共に心も自ずから正しくなっていく」としている。
- 新渡戸稲造はその著『武士道』で、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」「優雅な感受性として表れる礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事を行うので、いつも優雅な感受性として表れる。」「奥ゆかしさとはもっとも無駄のない立居振る舞いである。」「あらゆる礼法の目的は精神を淘汰することである。」と著している。
- 福沢諭吉はその著『文明論之概略』で、「文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云うなり、衣食を豊かにして人品を貴くするを云うなり」「文明とは人の安楽と品位との進歩を云うなり。又この人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の知徳の進歩と云ってもよいであろう」としている。
- 戦国時代の奥州の戦国大名伊達正宗は、「度を過ぎた礼はもはやまやかしである」としている。
- 小笠原流宗家、小笠原清務は「礼道の要は心を練るにあり。礼を以て端座すれば兇人剣を取りて向ふとも害を加ふること能はず」としている。
- 中国の春秋時代における斉の政治家、管仲は「衣食足りて礼節を知る」としている。
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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年04月23日 最終更新:2007年04月23日