名誉 - 武士道

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名誉とは

最終更新
2007-10-21T14:07:52+09:00
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http://www.7key.jp/data/bushido/meiyo.html#what

武士道における「名誉」とは、名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を守ることである。武士道の「死」とは「生」を高めるための「死生観」であり、それは「どう生きながらえるか」ではなく、むしろ「どう美しく死ぬか」、同時に「何のために生きるか」という根元的な哲学の上に位置するものである。そこから転じて、武士道は死を超えても守らなければならない「」のために、死をも美学として昇華させたのである。

一般に「名誉」の観念は、名・面目・外聞などの言葉で表されるが、裏を返せば全て恥を知ることである。武士の間では、高潔さに対するいかなる侵害も恥とされ、羞恥心を大切にすることは幼少の教育においてまず初めに行われた。「人に笑われるぞ」「体面を汚すな」「恥ずかしいことをするな」などの言葉は、過ちを犯した子供の振る舞いを正す最後の切り札とされた。そのため武士道における徳には全て「恥」の意識が働いていたのである。「恥」は人の道徳意識の出発点であり、その対極たる「名誉」は、人間が人間としての美学を追求するための最初の徳とされ、武士にあっては「命」以上に重きを置くものとなったのである。「花は桜木、人は武士」との言葉もあるように、武士は不名誉な生より「名誉」ある死を求め、桜のような散り際を武士道の誉れとした。日本人の精神文化が「恥の文化」とされるのは、こうした長い年月のなかで培われたものだったといえる。

「名誉」は明治時代以降しばしば、虚栄や世俗的賞賛と混同されたが、武士にとって「名誉」は損得勘定の対象ではない。明治時代以降、「末は博士か大臣か」という言葉に象徴されるような「立身出世主義」が蔓延したが、「名誉」が人生の至高善として尊ばれるのは、それが「富みにあらず、知識にあらず」だからであり、「私利私欲にあらず」だからである。世間の評判を気にするような名誉は本当の「名誉」ではない。また、「名誉」の繊細な掟が陥りがちな病的な行き過ぎは、寛容と忍耐で相殺された。「ならぬ堪忍、するが堪忍」から読み取れるように、取るに足らない侮辱に腹を立てているようでは優れた人物に相応しくないが、大儀のための義憤は正当な怒りとされた。孟子は「些細なことで怒るのは君子に相応しくない。しかし、大義のためにする義憤は、君子に相応しい怒りである。」と説き、これが武士の間で守られたのである。

若者達が追い求める目標は、富でも知識でもなく「名誉」であった。多くの少年が志を持ち生まれ育った家を出る時には、世に出て名を成すまでは再びこの敷居をまたぐまいと心に誓ったものである。彼らは若いときに得た名誉が年齢と共に大きくなることを知っていたのだろう。例えば、徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)は、大阪冬の陣に際して先鋒軍に加えて欲しいと熱心に懇願するも聞き遂げられず後陣に配置された。その後、大阪城が落城した際、頼宣は激しく悔し涙を流したといわれる。老臣、松平正綱がなんとか慰めようと、「長い将来を考えてお嘆きなさるな、これから先長い間には功名をお立てになる機会はいくらもありましょう」と言ったとき、頼宣はその老臣を怒りの目で見据え、「なんと愚かなことを。我が十三の歳が再び来ると言うのか」と言ったという。このように、名誉と名声が得られるのであれば生命は軽いものと考えられていた。それゆえ、生命よりも重い大義が生ずればいつでも、極めて冷静かつ迅速に生命を棄てることができたのである。

名誉の定義

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年04月23日 最終更新:2007年10月21日