出師表

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出師表とは

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2009-04-18T13:35:28+09:00
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出師表とは、「すいしのひょう」と読み、臣下が出陣する際に君主に奉る文書を指す。「師」とは軍隊のことであり、「表」は公開される奏文を表す。「出師表」は一般的な文書名だが、諸葛亮孔明が劉禅に奏上した出師表が歴史上特に著名であるため、特に断りのない場合、出師表とは孔明のもの(特に前出師表)を指す場合が多い。

当ページでは、孔明の記した出師表を主に解説する。

前出師表とは

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2009-04-18T13:44:38+09:00
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支那の建興5(227)年、北伐に際し、蜀漢の皇帝である劉禅へ諸葛亮孔明が奉った出師表を「前出師表」と呼ぶ。単に「出師表」と言った際はこの出師表を指すことが一般的とされるが、「後出師表」と区別するために前出師表とも表現される。前出師表は、自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を述べるとともに、若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。古来より名文中の名文とされ、「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」(『箋解古文眞寶』より安子順の発言)との紹介もある。

後出師表とは

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2008-04-19T20:44:18+09:00
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孔明は、前出師表の翌年、建興6(228)年にも劉禅に出師表を奉ったとされている。前出師表に続き、北伐への決意などが記されている。これは、裴松之注所引の張儼『黙記』に記載されているが、『三国志』では言及されていないため、後世の偽作であるとの見方が強い。この建興6年の出師表を「後出師表」と呼ぶ。

出師表の原文

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2009-04-18T18:36:29+09:00
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前出師表

臣亮言 先帝創業未半 而中道崩殂 今天下三分 益州罷敝
此誠危急存亡之秋也 然侍衞之臣 不懈於內 忠志之士
忘身於外者 蓋追先帝之殊遇 欲報之於陛下也 誠宜開張聖聽
以光先帝遺コ 恢弘志士之氣 不宜妄自菲薄 引喩失義
以塞忠諫之路也 宮中府中 俱爲一體 陟罰臧否
不宜異同 若有作奸犯科 及爲忠善者 宜付有司、論其刑賞
以昭陛下平明之治 不宜偏私 使內外異法也

侍中 侍カ郭攸之 費禕 董允等 此皆良實 志慮忠純
是以先帝簡拔以遺陛下 愚以爲宮中之事 事無大小 悉以咨之
然後施行 必得裨補闕漏 有所廣益 將軍向寵 性行淑均
曉暢軍事 試用之於昔日 先帝稱之曰 能 是以衆議舉寵爲督
愚以爲營中之事 事無大小 悉以咨之 必能使行陣和穆 優劣得所也

親賢臣 遠小人 此先漢所以興隆也 親小人 遠賢臣
此後漢所以傾頽也 先帝在時 每與臣論此事
未嘗不歎息痛恨於桓 靈也 侍中 尚書 長史 參軍
此悉貞亮死節之臣也 願陛下親之 信之 則漢室之隆 可計日而待也

臣本布衣 躬耕南陽 苟全性命於亂世 不求聞達於諸侯
先帝不以臣卑鄙 猥自枉屈、三顧臣於草廬之中 諮臣以當世之事
由是感激 遂許先帝以馳驅 後値傾覆、受任於敗軍之際
奉命於危難之間 爾來二十有一年矣
先帝知臣謹愼 故臨崩寄臣以大事也

受命以來 夙夜憂慮 恐付託不效 以傷先帝之明 故五月渡瀘 深入不毛
今南方已定 甲兵已足 當奬率三軍 北定中原 庶竭駑鈍 攘除姦凶
興復漢室 還於舊都 此臣所以報先帝而忠陛下之職分也 至於斟酌損益
進盡忠言 則攸之 禕 允等之任也

願陛下託臣以討賊興復之效 不效則治臣之罪 以告先帝之靈
若無興復之言 則責攸之 禕 允等之咎 以彰其慢
陛下亦宜自謀 以諮諏善道 察納雅言 深追先帝遺詔
臣不勝受恩感激 今當遠離、臨表涕泣 不知所云

臣・亮言う。先帝、創業未だ半ばならずして、中道に崩殂す。今天下三分し、益州は疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。然れども、侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追いて、これを陛下に報いんと欲すればなり。誠に宜しく聖聴を開帳し、以て先帝の遺徳を光やかし、志士の気を恢弘すべし。宜しく妄りに自ら菲薄し、喩えを引き義を失い、以て忠諫の路を塞ぐべからざるなり。宮中と府中とは、俱に一体たり、臧否を陟罰するに、宜しく異同あるべからず。もし姦を作し科を犯し、及び忠善をなす者あらば、宜しく有司に付して、その刑賞を論じ、以て陛下平明の治を昭かにすべし。宜しく偏私して内外をして法を異にせしむべからざるなり。

侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允等は、これ皆な良実にして、志慮忠純なり。これを以て先帝簡抜して以て陛下に遺せり。愚おもえらく宮中のことは、事の大小と無く、悉く以てこれに咨り、しかる後に施行せよ。必ず能く闕漏を稗補し、広益する所有ならん。将軍の向寵は性行淑均にして、軍事に暁暢す。昔日に試用せられ、先帝これを称して能と曰う。これを以て衆議は寵を挙げて督となす。愚おもえらく宮中の事は、事の大小と無く、悉く以てこれに咨れ。必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめん。

賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、これ先漢の興隆せしゆえんなり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、これ後漢の頽敗せしゆえんなり。先帝在りしとき、毎に臣とこのことを論じ、未だ嘗て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。侍中・尚書・長史・参軍は、これ悉く貞亮死節の臣なり。願わくは陛下これを親しみ、これを信ぜよ。則ち、漢室の隆、日を計りて待つべきなり。

臣は本布衣、躬ら南陽に耕す。苟くも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めず、先帝、臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。これに由り感激し、遂に先帝に許すに馳驅を以てす。後に傾覆に値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり。先帝は臣の謹慎なるを知る。故に崩るに臨みて、臣に寄するに大事を以てす。

命を受けて以来、夙夜憂慮し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷なわんことを恐る。故に五月、濾水を渡り、深く不毛に入る。今南方已に定まり、甲兵已に足る。当に三軍を奨帥し、北のかた中原に定むべし。庶わくは駑鈍を竭くし、姦凶を攘除し、漢室を興復し、旧都に還さん。これ臣の先帝に報いて、陛下に忠なるゆえんの職分なり。斟酌損益し、進みて忠言を尽くすに至りては、則ち攸之、禕・允の任なり。

願わくは陛下、臣に託するに討賊興復の効を以てせよ。効あらざれば、則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げよ。もし徳を興すの言無くんば、則ち攸之・禕・允等の咎を責め、以てその慢を彰かにせよ。陛下亦た宜しく自ら謀りて、以て善道を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追うべし。臣、恩を受け感激に勝えず、今当に遠く離るべし。表に臨みて涕泣し、言うところを知らず。

岳飛書「前出師表」拓本より

後出師表

先帝慮漢賊不兩立 王業不偏安 故託臣以討賊也
以先帝之明 量臣之才 故知臣伐賊才弱敵彊也 然不伐賊 王業亦亡
惟坐而待亡 孰與伐之 是故託臣而弗疑也

臣受命之日 寢不安席 食不甘味 思惟北征 宜先入南
故五月渡濾 深入不毛 併日而食 臣非不自惜也
顧王業不可偏全於蜀都 故冒危難以奉先帝之遺意 而議者謂爲非計

今賊適疲於西 又務於東 兵法乘勞 此進趨之時也 謹陳其事如左
高帝明並日月 謀臣深淵 然渉険破創 危然後安
今陛下未及高帝 謀臣不如良平 而慾以長策取勝 坐定天下
此臣之未解一也

劉繇王郎各拠州郡 論安言計 動引聖人 群疑滿腹 衆難塞胸
今歳不戰 明年不征 使孫策坐大 遂併江東 此臣之未解二也

曹操智計殊絶於人 其用兵也 髣髴孫呉 然因於南陽 険於烏巣
危於祁連 偪於黎陽 幾敗北山 殆死潼関 然後偽定一時耳
况臣才弱 而慾以不危而定之 此臣之未解三也

曹操五攻昌覇不下 四越巣湖不成 任用李服而李服圖之
委任夏侯而夏侯敗亡 先帝毎稱操爲能 猶有此失 况臣駑下何能必勝
此臣之未解四也

自臣至漢中 中間朞年耳 然喪趙雲 陽羣 馬玉 閻芝 丁立 白寿
劉郃 ケ銅等 及曲長 屯将 七十餘人
突将無前 賨叟青羌散騎武騎 一千餘人此皆數十年之内
所糾合四方之精鋭 非一州之所有 若複數年 則損三分之二也
當何以圖敵 此臣之未解五也

今民窮兵疲 而事不可息 事不可息 則住與行勞費正等 而不及早圖之
慾以一州之地與賊持久 此臣之未解六也

夫難平者事也 昔先帝敗軍於楚 當此時 曹操拊手 謂天下以定
然後先帝東連呉越 西取巴蜀 挙兵北征 夏侯授首 此操之失計而漢事将成也
然後呉更違盟 関羽毀敗 秭帰蹉跌 曹丕稱帝 凡事如是 難可逆見
臣鞠躬尽力 死而後已 至於成敗利鈍 非臣之明所能逆覩也

先帝、漢・賊の両立せず、王業のひとえに安せざるを慮り、故に臣に託すに討賊を以てせり。先帝の明を以て、臣の才を量り、故に臣の賊を伐つに才弱く敵の強きことを知れり。然れども、賊を伐たざれば、王業もまた亡ぶ。ただ坐して亡ぶるを待たんよりは、これを伐たんに孰与ぞ。この故に臣に託して疑わざりしなり。

臣、命を受けし日より寝ぬるに席を安んぜず、食するも味を甘しとせず。北征を思惟するに、宜しく先ず南に入るべし。故に五月、濾水を渡り深く不毛に入り、日を併せて食う。臣、自ら惜しまざるにあらざるなり。王業の蜀都に偏全するを得ざるを顧い、故に危難を冒して以て先帝の遺志を奉ずればなり。而れども、議する者、謂いて計にあらずと為せり。

今、賊たまたま西に疲れ、また東に務む。兵法に労に乗ずと。これ進趨の時なり。謹みて其の事を陳ぶれば左の如し。高帝の明なること日月に並び、謀臣は淵のごとく深し。然れども険を渡り、創を破り、危うくして然るのちに安し。今、陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は良・平に如かず、而も長計を以て勝を取り、坐して天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり。

劉繇・王郎は、各々州郡に拠る。安んぜんことを論じ計を言い、ややもすれば聖人を引けり。群疑は腹に満ち、衆難は胸に塞がれり。今歳戦わず、明年征せず。孫策をして坐して大となり、遂に江東を併せしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり。

曹操の智計は人に殊絶せり。その兵を用うるや、孫子・呉起に髣髴たり。然るに南陽に困しみ、烏巣に険うく、祁連に危うく、黎陽に偪られ、幾北山に敗れ、殆ど潼関に死せんとし、然る後に一時を偽定せしのみ。いわんや臣の才弱くして、危うからざるを以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の未だ解せざるの三なり。

曹操、五たび昌覇を攻むるも下らず、四たび巣湖を越ゆるも成らず、李服を任用するも李服これを図り、夏侯に委ぬるも夏侯敗亡す。先帝、つねに曹操を称して能と為すも、なおこの失あり。いわんや臣の駑下どげなるをや、何ぞ能く必勝せんや。これ臣の未だ解せざるの四なり。

臣、漢中に至りしより中間朞年のみ。然るに趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・ケ銅ら、及び曲長・屯将七十余人、突将前なき賨叟・青羌の散騎武騎一千余人を喪えり。此れ皆数十年の内に糾合する所の四方の精鋭にて、一州の有つ所にあらず。もし複た数年ならば三分の二を損わん。まさに何を以て敵を図るべき。これ、臣の未だ解せざるの五なり。

今、民は窮し兵は疲れ、而も事は息むべからざず。事、息むべからざれば則ち住まると行くと労費まさに等しきに、今に及びてこれを図らず、一州の地を以て賊と持久せんと欲す。これ臣の未だ解せざるの六なり。

それ平らげ難きは事なり。昔、先帝楚に敗軍せり。此の時にあたりて、曹操手を拊ちて、天下以て定まれりといえり。然る後、先帝東のかた呉・越を連ね、西のかた巴・蜀を取り、兵を挙げて北征するや、夏侯の首を授く。此、曹操の失計にして、漢の事、将に成らんとするなり。然れども後に呉、さらに盟に違い、関羽は毀敗し、秭帰は蹉跌して、曹丕は帝を称す。凡そ事はかくの如く、逆見すべきこと難し。臣、鞠躬して尽力し、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所にあらざるなり。

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Copyright (C) 2009 七鍵 key@do.ai 初版:2009年04月18日 最終更新:2009年04月18日