寛政暦とは

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寛政暦とは

最終更新
2008-01-16T00:00:00+09:00
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https://www.7key.jp/data/koyomi/kanseireki.html#what

寛政暦は「かんせいれき」と読み、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法の和暦。寛政10(1798)年に宝暦暦から改暦され、46年間使用された後、天保15年に改暦され、弘化元年1月1日(1844年2月18日)から天保暦が使用された。寛政暦は、1太陽年を365.242347日、平均朔望月を29.530584日としている。

宝暦暦の修正を監督した田沼意次に次いで老中の座に就いた松平定信は、徳川吉宗の孫ということもあり、祖父の悲願である西洋天文学の成果を生かした改暦に積極的であったとされる。また、宝暦暦の出来が悪いとの実利的な面からも、幕府は暦法の改暦に迫られていた。当時の大阪には麻田剛立(綾部妥彰)を始め、高橋至時、間重富らの優秀なアマチュア暦学者が集り、支那経由で伝わってくる西洋の天文学の理解に励んでいた。麻田は、かつて宝暦暦が日食予測に失敗した際、独自にそれを予測して宝暦暦の不正確さを指摘した豊後杵築藩の藩医である。その後、天文学の研究に没頭すべく、藩医辞職を許さない杵築藩を脱藩し、大坂に出ていた。

幕府はこの優秀な大阪のグループに目をつけて招聘を試みるも麻田は固持し、自分に代わって高橋・間両者を推薦。このため、両名が民間から天文方に取り立てられることになる。高橋至時らは先任の天文方と協力し、寛政9(1797)年に新しい暦法を完成。この暦法では、西洋天文学の書の中国語訳である『暦象考成後編』を元に、太陽や月の運行に楕円軌道法や消長法を採用した。弘化元(1844)年、渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエのものを用いるなどしていた。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年01月16日 最終更新:2008年01月16日